昨晩、開京から早馬がついた。
書状を開くと、大護軍の王都への帰還を許す旨、したためられていた。
内密に願い出ておいたおかげで、医仙のことには触れられていない。
「思いのほか早かったな」
チェ・ヨンは満足げにそう言った。
早馬と同時に、手裏房(スリバン)も都へ向かわせ、チェ尚宮へ事情を伝えた。
医仙のことは、王にも伝わっているはずである。
でなければ、天穴から医仙が出でて九日、このように早く使いがたどり着くことは
できない。馬を何頭乗り捨てたのか、使いは都から四日、食事も眠りもほとんど
取らずに来たようで、げっそりとした様子だった。
「飯でも寝床でも、欲しいだけ与えてやれ」
言い残すとすぐに、出立の最後の手筈の指示を出しに、この後六人の隊長を集めるよう
テマンに言いつけた。
人と馬と荷の手配はすでにつけてあったが、明日出立となれば、
急ぎ荷作りをさせる必要のある兵もいる。
目の前に立たせている九名を見渡す。都行きに同行させるものたちだ。
迂達赤隊(ウダルチ)のテマン、チュモの腕は確かだが、隊に入り三年めとなる二人は少し劣る。
年嵩の徴用兵の二人はなおさら使えない。
それでも、大護軍と医仙の同道として選ばれたと胸を張っている。
位階のあるのは中郎将のオ・ソクチェと校尉のチュモだけだったが、
指揮をする自分が急遽立ち去るのだから、位の高いものを連れていくわけにはいかなかった。
腕がたって、忠誠心が強く、そしてできれば都に家族の待つもの。
そうして選んだ九人で、最善とまではいかなかったが、ただ急ぐのみでさほど危険のある
わけではない道中にはまずまずの人選だった。
「出立は明日だ」
すでに聞いていたと見えて、皆慌てもせずうなずく。
「卯の正刻に各人騎馬にて営門近くに集まるとする。
徴用兵は開京にて役目をとかれることとなる。テマンはいつもどおり俺に随従しろ。
この三人戻らぬものとして、身の回りのものすべての始末をつけておけ。
持てぬものは、全部仲間にくれてやれ」
明日の準備について、次々に指示を続ける。
チェ・ヨンは最後にテマンに声をかける。
「お前はもう荷作りはすんでいるな」
はい、迂達赤隊の仲間にみなやってしまいました、とテマンはうなずく。
この男はよくよく、欲がない。
「まず隊長を呼んでこい、わかってるな」
はい、隊長を六人呼んできます、と言って出て行こうとするのを、チェ・ヨンが
呼び止める。
「待て、もう一つだ。その後、宿に行って医仙に出立が明日になったと伝えてこい」
隊長を呼ぶ、医仙に伝える、とテマンは指折りながら繰り返す。
「隊が宿まで迎えに行くので、辰一刻までに支度をすませて待つように」
わかりました辰一刻ですね、と復唱すると、テマンは風のようにその場を去った。
皆が出て行くと、チェ・ヨンはどさりと椅子に腰をおろした。
明日の出立を決めて、朝から休みなく動いている。
明後日でも、と言うものもいたが、チェ・ヨンの一日でも早くという意思は固かった。
噂は千里をかける。だれか医仙を気にかけるものの耳に入る前に出てしまいたい。
自らの準備が整わないということは、敵の準備も整わないということだ。
ふう、と息をついて、首を後ろに投げ出す。
「わたしね、やっぱり医者をやっていこうと思うの。
医仙じゃなくて、普通の医員としてよ。
現代医学のアドバンテージがあるから、私きっとかなり腕のいい医員になるわね」
ウンスはそんなことを言っていた。
一昨日、用件のついでに宿に立ち寄ることができて、顔を見るだけと思ったが、
結局立ち去り難くて、ウンスに通りの茶屋に連れていかれたときだ。
剛釘と茶食を並べられて、得意げに、ここが一番美味しいのよ、と言う。
高麗ではもうこういうお菓子ができてたのね、天界でも同じのがあるわ、
とまずは自分が口に入れていた。
自分がいぬ間に、病人の世話をしたり、この辺りをぶらついたりして過ごしていると
手裏房から報告は受けていた。
「あまり宿からお出にならないでいただきたい」
そう言うと、頬を膨らませる。
こんな面白い顔をする女人は見たことがない、と思う。
「部屋の中で一人でいると心配ばかりして、ヒステリー起こしちゃうわ。
心配したって何もできないときは、せめて別のことをしてたいの」
どうやら先日チェ・ヨンにあたったのは、天界の言葉でそう言うらしい。
お願い、と手を合わせられると返答につまる。
宿の近辺だけで、と念を押すと、嬉しそうにぱっと笑った。
茶を飲んで、そう言えばと尋ねると、天界の道具は昔に置いてきたのだという。
「未練が残るでしょ持ってると。抗生物質も手術器具もサージカルテープも
あと二巻、とか思って、天穴にまた入りたくなるかもしれないし。
それに、ああいう道具はどうしても目立つから」
あと、私が過去にあの道具とかプロジェクターとかを置いてこなかったら、
あれを私がこの高麗で見ないことになっちゃうでしょ?
ええと、タイムパラドックスが起こっちゃうわけよ、
と最後の言葉は天界語だらけでまったく意味がわからなかった。
人前で天界の言葉を使わなくなったというのに、ウンスは二人で話すときには、
以前と同じで、わけのわからない言葉を減らすことがなかった。
むしろ、わけがわからないという顔をするチェ・ヨンをからかうような顔で覗きこむ。
それがチェ・ヨンには、嫌ではなかった。
昨日は行けなかったので、しかたがなくテマンに様子を見に行かせた。
明日の出立を控えて、今日も当然兵営を離れることはできない、
と思うと忌々しくて、舌打ちが出た。
「ウダルチテジャン、チュンソク参りました」
部屋に入ると、チュンソクがチェ・ヨンの前で足を揃えて言う。
この男を伴えれば一番安心なんだがな、と思い、そのまま口に出す。
「おまえを連れていければな、俺が楽なんだが」
チュンソクはまんざらでもなさそうに口元をぴくぴくとさせたが、
浮かんでしまう笑みを噛み殺して、平静を装う。
「ついて参りたいのはやまやまですが、テホグンが急かしますので、
仕事が山積みですから」
俺みたいに、副隊長(プジャン)にやらせればいい、と言うと、苦労を思い出したのか、
ははは、と作り笑いをした。
卓に足を投げ出して、腹の上で指を組む。
明日からは、旅程とはいえウンスと離れずにすむと思うと、口元が自然と上がった。
「頼んだぞ。医仙の件がすんだら、ウダルチは開京に呼び寄せる。
次がここよりいいとは限らないがな」
そう言うとチュンソクは、大護軍の行くところならどこへでも、
と地図を広げながら、そう言った。
チェ・ヨンがようやく私室へと足を向けることができたのは、もう日も変わろうとする
刻限だった。月は天のもっとも高いところを通り過ぎ、暗がりの中の影を濃くしている。
寝ずの番のものだけが、ぽつりぽつりと辺りに目をやったり、歩き回ったりしているが、
話をするものもほとんどなく、辺りは静かだった。
早く床につきたくて、足早になる。
明日のことを考えると妙に目が冴えて、あまり眠れそうになかったが、
身体だけは休めておきたかった。
集合所の部屋を抜ける。
多くの人の集まるこの部屋は、侮られぬ程度に調度も整えられている。
ただそこに連なるチェ・ヨンの私室は、あまりにも簡素だ。
木台に筵を重ねて布をかけて申しわけ程度に整えた寝台と、
身の回りのものを入れてある行李も一つきり。
飾りのない椅子が二つと書き物卓が一つ、風除けの壁に剣置きが
申しわけ程度に置いてあるだけだった。
掃除洗濯だけは行き届いているが、ただそれだけの部屋だ。
どんな場所でも豪奢な自室を求める上将軍の話も聞き、もう少し快適な部屋をと
薦めるものもいたが、戦場で快適な部屋を求めるなど頭のおかしい者のすることだと
チェ・ヨンは一笑にふした。
この部屋で寝るのも今日でおしまいだ、と思ったが感慨めいたものは
何一つわいてこなかった。
扉に手をかけわずかに開けかけて、そこでチェ・ヨンは眉をしかめて動きを止めた。
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