部屋の中に気配があった。
目をつむり、計る。
剣は持たぬ。武者ではない。息もひそめておらぬ。
…というか、寝息だ。
数瞬の後、ゆっくりと扉を開けきり、一歩踏みこむ。
部屋に明かりはなかったが、薄ぼんやりと見える白茶けた壁を背にした椅子に、
人影があるのがわかった。
剣に手をかけてはいたが、チェ・ヨンは抜かなかった。
つかつかと歩み寄り、肩に手をかけて揺する。
「あなたですか」
小さなあくびをしながら、人影が伸びをした。
待ちくたびれて、寝ちゃったわ、とつぶやく。
「なぜ、ここにいるのですか。宿場にいるよう、言ったはずです」
明かりもつけずに、と強い口調で言いながら、入り口脇の灯心に火をともす。
わずかな明かりの中に、兵の装束を着たウンスが浮かび上がった。
以前にもこんなことがあった、とチェ・ヨンは思い出す。
気難しい顔を保つのは、容易ではなかった。
「怒らないって約束してね」
ウンスは目を両手でこすり、眠気を覚ますように頬を叩く。
「頼んで忍びこませてもらったの。あ、大丈夫よ、ほら見て」
自分の衣をつまみながら、ウンスが言う。
見ごろの皺を、手のひらで撫でて伸ばしている。
「ちゃんと宿でこれを着て、傘もかぶって変装したのよ。
こっそり入ったから、頼んだ人以外は私がここに来たって知らないわ。
あ、他の人には秘密にしてね、ってちゃーんと念も押してきたから」
チェ・ヨンは何も言わずに腕を組んで、ウンスを見下ろしている。
「だって、せっかく戻れたのに、ぜんぜん一緒にいられないんだもの」
ふくれっつらをして見せたウンスの言葉を無視して、チェ・ヨンがつぶやいた。
「テマンですね」
ウンスは目を見開き、口を大きく開ける。
「なんでわかっ…違う、違うの。テマンじゃないわ!」
慌てて両手を顔の前でぶんぶんと振るが、目が泳いでいる。
チェ・ヨンは呆れて大きく一つ息をつくと、言った。
「宿に送っていきます」
「いいえ! ここに、泊まります」
言葉をさえぎるように、だん、と足を踏んでウンスも言い張る。
「明日からは旅よ。ゆっくり話すこともできないでしょ」
皇宮に戻れば時間が取れます、と言うチェ・ヨンの言葉をウンスがまたさえぎる。
「だって、宿で一人でいると寂しいんのよ。
話す相手もいないし。あなたは忙しいし、来てくれてもすぐ帰っちゃうし。
帰ってしまうと、なんだか一人でいたときより、寂しくて」
それはこれからに必要な手はずにかけまわっているからだ、と
言いたいのをチェ・ヨンはぐっと飲みこんだ。
「テマンやトクマンが顔を出してくれるけど、あ、チュンソクもまた一度来てくれたわ。
でもみんな忙しくてすぐ帰っちゃうし」
あ、それに! とウンスが手を叩く。
あいつら、とつぶやいて苦虫を噛み潰したような顔をしているチェ・ヨンには気づかない。
「そうだ! 私まだ、ウダルチの二等兵のはずよ。
あのときもあなたの部屋に置いてもらったわ。
ね、ほら、宿だって引き上げてきちゃったんだもの」
「わかりました!」
チェ・ヨンが吠えるように言ったので、ウンスは首をすくめる。
わかりました、それではそちらの寝台を使ってください、と
ふてくされたように言うと、チェ・ヨンは上着だけ脱いで、
椅子を二つ向かい合わせてそこに足を投げ出して座った。
四年前にそうしていたのと同じように。
そして、ふいと顔をそらしてしまった。
髪をほどいている間も、チェ・ヨンはウンスの方を見ない。
「ここを使えばいいじゃない。私が椅子を使うわよ、悪いから」
寝台に腰かけたウンスが、口をとがらす。
「ウダルチの部屋の寝台より、よほど広いじゃない。
明日から旅なのに。腰を伸ばして寝たほうがいいのよ」
チェ・ヨンは腕を組んで、目をつむって応えない。
「前にも、一緒に寝台を使ったことあったじゃないの」
ぶつぶつと言い続けるウンスに、チェ・ヨンは、
わからない人だ、と言って勢いよく立ち上がり、寝台の横までつかつかと歩み寄る。
ウンスがにっこりと笑って、ポンポンと自分の横を叩くのを見ると、
口を開きかけたが、そのままくるりと背を向けて椅子まで戻り、その背もたれに手を置いた。
「あのときとは、違います」
それだけ言うとまた黙った。
「何が?」
ウンスが柔らかく尋ねると、チェ・ヨンは背中を向けたまま答えた。
「あのときはあなたは毒に侵されていらした。
私も手がきかぬようになって、剣を取り落としたり。
とにかくあのときは、たくさんのことがひと時にあって」
チェ・ヨンは、はあ、と大きく息をつくと椅子を一度カタリと鳴らした。
「だから?」
ウンスが尋ねる。俺が、と言った後、チェ・ヨンは言葉を途切らせた。
しばらくの逡巡の後、言う。
「俺が……こらえられぬ」
今度はウンスが黙って、部屋は静かになった。
音がなくなってしまったのを気にしてか、チェ・ヨンが肩越しにウンスをうかがった。
ウンスはもう一度、寝台を手で叩いて、それからちょいちょいと、チェ・ヨンを手招きした。
話をするだけだから、ね、と今の言葉を聞いていなかったかのように微笑んでみせる。
チェ・ヨンは二、三度頭を振ると、諦めたふうに、どさりとウンスの横に腰かけた。
ウンスは黙ったまま、チェ・ヨンの手首のあたりに自分の手をかぶせる。
しばらくの間、二人は自分の手元ばかり見て沈黙が流れたが、
それは不思議と気まずいものではなかった。
ウンスが、しゃべりだす。
「ね、わたし、前はいろんなものがほしかったわ。服とか、靴とか、アクセサリーとか」
頭を左右に揺らしながら、ウンスが言う。
「キ・チョルみたいにね。ほらわたし現代人だし」
奇轍の名が出て、チェ・ヨンはちらとウンスを見た。
ウンスは穏やかな様子で、おどけた笑みを浮かべている。
チェ・ヨンも、自分でも気づかぬうちに、うっすらと笑んでいた。
この人の笑う姿が好きだ、と思う。
ウンスは続けた。
「いまはね、びっくりするくらい、なんにもいらないの」
しばらく間をおいて、ウンスは口を開いた。
あなた以外はね、とウンスはとても小さな声で言った。
驚いたようにチェ・ヨンがウンスを見る。
それから、ウンスは横からチェ・ヨンの顔をそっと覗きこみ、
顔を寄せていないと聞きとれないほど微かに言った。
声は小さかったが、目はまっすぐチェ・ヨンを見ていた。
「テジャン…」
逆らえない、
と思う意識さえあったかどうか。
チェ・ヨンはほとんど跳びかかる勢いで、ウンスを寝床に押し付けた。
目の前が赤くなるほど、頭に血が上る。
早鐘のように心臓が打つ音が、こめかみに響いてくるほどだ。
ウンスは勢いに驚いて、目を見開いている。
寝台に大きく散った長い髪、透けそうに白い肌、李を含んだように赤い唇。
どこもかしこも見ていたくて、どこを見ていいかわからず、目がさまよう。
何かを言おうとしたのか、開きかけたウンスの口の中の濡れた様子がちらりと
見えて、ウンスが何か言う前に、チェ・ヨンは自分の唇でふさいだ。
何度も角度を変えて重ねるうちに、潤ってくる。
ついばむと、遅れてついばみ返してくるのが、嬉しくてたまらなかった。
たまらずに舌をさしいれて、深く吸うとウンスは小さく呻いた。
衣を毟るように打ち合わせに手を入れると、白い肌があらわれる。
寒いのだろう、ウンスが身震いをした。
寒いですか、と尋ねようかとチェ・ヨンはちらと思ったが。
寒いと言われたとて、止めることはできまい、と思って問うのをよした。
ただ燃えるように熱くなっている自分の身で抱きこみ、肌を合わせて温めようとした。
紐を解く手が乱暴になって、いくつかはちぎったかもしれなかった。
はだけた胸の先に口づけると、ウンスは思いのほか大きな声を出して、
チェ・ヨンが目を上げると、目を見開いたまま、口元で手で押さえていた。
目が合うと、口を押さえたままささやく。
「あなたの口、熱くて。驚いただけ」
恥ずかしげに言うのが愛しく、笑みで応える。
「声をお殺しになるな。それでは、つまらぬ」
低く笑いのこもった声で言うと、ウンスは、でも、と小さく言う。
「あなたの体面もあるでしょう?」
昔、握手とやらをされて、そのときはそんなことも言った。
確かに部屋の入り口近くには衛兵もいる。窓下を、見回りが通るだろう。
それでも体面など毛ほども気にならなかった。
ただ、ウンスのその様子を自分以外の誰かに聞かれるのは嫌だった。
ほんの少し想像するだけで、顔がかっと熱くなる。
「それでは、声をひそめましょう」
ウンスの耳に顔を寄せて、そうささやく。理由は言わずに。
部屋は、窓からもれ入る月明かりで壁の一角が切り取られたように白い他は、仄暗かった。
その影の中で、二人は声も息もひそめて、互いの身体を寄り添わせた。
薄い申し訳程度のただ清潔なだけの上掛けの下で、
チェ・ヨンの硬い肉に覆われた背中が持ち上がり、ゆっくりと沈む。
ウンスに包まれたとき、くいしばるような一息がもれた。
はやる気持ちはあったが、チェ・ヨンは大分長く、動くのをこらえていた。
そして動かないでいるというのに、次第に荒ぶっていく息のままに、
ウンスの髪をまさぐったり、耳を舐ったりする。
ウンスの息があがって逃げるような様子を見せると、
ようやく止めて髪に口づけを落としてささやいた。
「ようやく、本当に、俺のそばにきましたね」
身体の下でウンスが身じろぎし、肩に小さく唇を押し当てたあと、
何か言おうとして口を開きかけたが、そのまま黙って、
張りつめた肩にもう一度口づけた。
その後はもう容赦がなく、ウンスが苦しみに似た声をあげても、
動きを止めることはなかった。
ウンスの声が掠れるころ、チェ・ヨンはようやく、満足げに低くうなった。
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