開京南大門をくぐる。
チェ・ヨンは隣りを馬で歩むウンスから視線を戻し、まっすぐに城まで続く
道の先に目をやった。
ここで。五年前には、王の輿を先導していた。
ひと気のない城の前庭、ここは本当に王城なのかと目を疑う。
出立前にはもっと活気があったはずなのに別の場所のようだ。
ただ頭を下げる数人の衛士。
待ち受ける臣下の姿はなく、ことほぎを示す飾り一つなく。
今歩んでいるこの通りも、察するに奇轍(キ・チョル)が人払いをしたのだろう、
閑散として、人ひとり歩いてはいなかった。
色のつかぬ墨絵のような記憶が、目の前の光景と重なり、チェ・ヨンは目を細める。
そこから五年を経て。
通りには、大護軍チェ・ヨンの凱旋を見ようと、
どこからか聞きつけた人々が鈴なりになっていた。
国境付近で離れた場所のこととはいえ、戦は戦。
物と人の徴用は、民の生活を確実に圧迫し、不満の声も聞かれるが。
今日この日は、その耳障りな声も聞こえず、ただ英雄の帰還を
祭りのように喜ぶ顔だけが並んでいた。
屋根の上に手裏房(スリバン)のジフとシウルの姿が見えて、
チェ・ヨンは気づいているぞと、ちらと視線をやる。
都を離れている間にも、この二人とは何度か会う機会があった。
開京に流れる空気、噂、紅巾の賊の動き、頼んだことはどのような
手をつかってか、確実にチェ・ヨンに届ける。
それ相応の礼金が必要なのと、今でもしつこくヨンに稽古を
つけてもらいたがる以外は、本当に役に立つ手裏房に成長している。
屋根伝いに飛ぶようについてくるのが見えて、チェ・ヨンの口元に
それとわからぬほどの笑みが浮かんだ。
兵に一人女が混じっているのが珍しく、またその女がたいそう美しいもので、
見物人たちは、あれは誰であろうと指差し、尋ね合っている。
また余計なことに、ウンスが馬上からたまに手を振ったりするものだから、
余計に目立つのだ。
チェ・ヨンは小さく舌打ちし、馬の手綱を引き、ウンスの横にまで馬を下げる。
「手などふらないでください」
そう言ってもウンスは、意に介さない。
「だってみんな喜んでいるみたいよ、あなたの名前を呼んでるわ、
あなたって生きてるときから有名人だったのね」
そう言って腕を叩かれて、チェ・ヨンは、はあ、とため息をつく。
皆そうやって騒ぎたてたいだけです、俺でなくてもかまわぬのだから、と
説明して、もう一度ウンスに言った。
「とにかく、手をふるのはやめてください。見世物じゃあないんです」
そう言って、チェ・ヨンはまた馬を先頭へと戻した。
城門の前に到着すると、アン・ジェが、しばし、と言って馬を降り、門をくぐる。
そしてすぐに引き返してくると、中へ、とチェ・ヨンにうながした。
全員が馬を降り、手綱を控えていた禁軍の兵へと渡す。
何も言わず、ゆったりと歩を進めはじめたチェ・ヨンの背中に、
ウンスたちは急いで付き従った。
堅牢な石の城門をくぐると、正面に王城がそびえ立つ。
王にのみ許された山吹の瓦をその屋根に敷き詰め、
広々とした露台へと突き上げるように続く左右二つの石階段が、
その高さを強調する。
その威圧的な露台の中央に、小柄な一人の男の姿が見えた。
「テホグン、チェ・ヨン!」
高い声が、響く。
黒の正絹に金糸で四本爪の龍を縫いとった衣をまとう高麗の王その人が、
露台まで迎えに出ていたのだ。
御影の石の手すりに手をつき、身を乗り出すようにして、名前を呼ばわる。
すいと前に歩み出て、大護軍チェ・ヨンは膝をついた。
遠目にも、王の顔の喜色が読み取れた。
懐かしさに、ウンスは躍り上がるような心持ちになって、
大きくぶんぶんと手を振って、慌てたオ・ソクチェに止められた。
「御前でございますぞ」
いいじゃないの、わたし王様とは知り合いなの、と
ウンスが言うと、オ・ソクチェは浅い春の気候だというのに汗を浮かべていた。
「王みずからお迎えくださっております。
ご聖恩でございますから、どうか膝まづいてお受けくださいますよう」
いやいい、立ってこちらへ、と弾む声で王が言う。
大きく手を振り招いている。
後ろに王妃の姿も見えて、ウンスは小走りになり、
チェ・ヨンの背中にぶつかりそうになった。
「落ちついて。皆様お逃げになりませぬ」
いさめるチェ・ヨンの声も柔らかく、顔は微笑んでいた。
階段を上がる途中で、こらえきれずにチェ・ヨンを追い越して、
王妃の前にウンスは駆け出した。
夢中で、王に会釈も忘れて、王妃の手を取る。
ほとんど無視されたような形になった王は苦笑いを浮かべていたが、
王妃の両手をとったウンスと、驚きながらも目を潤ませている王妃を
見守った。
「王妃様、お元気でしたか」
ウンスが、ぎゅうっと王妃の手を握る。
「はい」
しばらくの間、王妃は言葉が出ない。
やっとのことで口を開くと、
「医仙に教えられたとおりに、毎日を生きてまいりました」
と一筋嬉し涙を頬に伝わらせながら答えた。
「医仙もお元気でしたか?」
王妃の問いに、ウンスは元気です、とっても元気です、と嬉しそうに答えた。
ウンスも泣きそうになって、それでも口をぎゅっと締めてこらえていたが、
ようございました、と言う王妃の後ろに知った顔を見つけて、
とたんに顔がくしゃくしゃになる。
「コモニム!」
体当たりでもするように、控えている人群れの中に飛びこむと、
ウンスはチェ尚宮に抱きついた。
「コモニム、わたし、」
堰が壊れたように、ウンスの目から涙が溢れる。
まるで子どもが泣くように、声をあげて泣くのを、王も王妃も嬉しそうに見守っていた。
チェ尚宮は突然抱きつかれて、おお、と口を開けたまま固まっていたが、
戸惑った表情のまま、なんとかウンスの背中を撫でて落ち着かせようする。
「わたし、死ななかった、死ななかったの」
ちゃんと生きてたわ、そう言いながら、肩に顔を埋めるウンスに、
チェ尚宮はただ、よかった、よかった、と繰り返す。
目で甥を探すと、自分とウンスからは目をそらし、見たこともない顔で、
わずかに天をふり仰いでいる。
チェ尚宮は急に涙が膨れ上がるのに戸惑って、ウンスをしっかと抱きしめて
ただもう黙って、何度も背中をさすり続けた。
そのとても珍しい姿に、ドチもほかの内官まで、誘われて涙をぽろぽろとこぼし、
何度も袖で目をぬぐう。
しばらく泣くとようやくウンスは落ち着いて、ひどく恥ずかしそうに
チェ尚宮から身体を離した。
「ごめんなさい、子どもみたいに泣いちゃって。恥ずかしいわ」
手でぱたぱたと真っ赤な目の顔を仰ぎながら、そう言うと、
待っていた王にようやく気づいて、ウンスは向き直った。
「チョナ! お久しぶりです」
お元気そうで何よりだと微笑む王に、ウンスは満面の笑みであろうことか、
その両手を握り、握手をする。
あの時は本当にお世話になって、本当にありがとうございました、
と言いながら、何度も手を上下させる。
王は微笑んだ顔を固まらせて、言葉を失っていた。
隣りで見ていた王妃の目が驚くほどに大きく見開かれ、
それから口元がわなわなと震えだした。
チェ尚宮が急いで引き離そうとするよりも早く、チェ・ヨンがウンスの
後ろ襟をつかんで王から引き剥がした。
「失礼を。天界では別れと出会いのときにこの挨拶をするそうなのです。
決して医仙に他意はないのです」
と王と王妃に頭を下げ、手をウンスの頭に乗せると無理やり頭を下げさせる。
「ちょっと、痛いわ、やめてよ」
ウンスが言うと、頭を下げたまま小声でチェ・ヨンが言う。
声は小さいが、かなり怒っているのか、なじるような口調だ。
「なぜほかの男の手など、握るのですか」
「ちょっとテンションがあがっちゃって間違っちゃっただけでしょう、
そんなに怒らないでよ」
「だいたいあなたは愛想がよすぎるのです。たいがいにしていただきたい」
「なに、なによ。妬いているの」
「そのようなことはおやめになっていただきたい、
と申し上げているだけだ」
だんだんと頭が上がり、王と王妃そっちのけで言い合う二人を
王と王妃はあっけにとられて見ていたが、前にも見たこの変わらぬ光景に、
顔を見合わせて噴き出した。
「よしなさい、御前であるぞ」
チェ尚宮がそう言うと、二人ははっと我に返る。
「う、うん」
王は咳払いをすると、とにかく、喜ばしきことである、と大きな声で言って
ウンスを城内へとうながした。
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