「チョナ、これ、全部食べていいのですか」
ウンスは手で口を押さえると、宴席に並んだ食事を見回して目が泳ぐ。
以前皇宮や于達赤隊(ウダルチ)の兵舎にいたころは、
粥に大根、韮を酒粕に漬けたものに魚や海老を煮炊きしたものがつけば御の字で、
この一年は、それでさえも懐かしいと思い出す食事を口にしてきた。
奇轍(キ・チョル)の屋敷で出た肉を夢で見て、はっと目を覚ますことさえあって、
我ながら意地汚いと呆れることもあった。
目の前にあるのは、普段は出ない茹でた麺に、柔らかく似た牛肉を乗せたもの、
この季節だというのに新鮮な野菜の入った九節板、
湯気のたっているスープには多分高麗に来てから一度も口にしていない、
鶏の大きな肉が入っている。
顔を近づけると枸杞や棗の甘い匂いがして、ウンスはよだれが
口の中に湧いてくるのを感じた。
つみあげられた餅果にはふんだんに蜜が混ぜられて艶々と光り、
いくつかには色もつけられている。
もし足りなければ、もっと持ってこさせるので、いくらでも、
と王が言うと、ウンスは、戻れてから今が一番幸せ! と上を仰いで手を胸にあてた。
チェ・ヨンが半笑いで、ウンスの肩に手を置く。
「言っておきますが、俺をねぎらう祝宴です」
「わかってるわよ、でも食べ物は誰が食べたってかまわないんでしょ。
ああっ、お酒! ねえ、それ二つ、こっちに置いて」
酒器を運ぶ女官の盆から、二つ取ると、わたしの席はどこ?
と内官に訪ねて自分で運んでいく。
チェ・ヨンは後ろで、肩を揺らして笑っている。
「久しぶりに、そちのそのような顔を見るな。
まあ、顔を見ること自体が久しぶりなわけだが」
席についた王が、チェ・ヨンに言うと、一年はかかりませんでした、
と言って王の横に用意された自分の座についた。
その横でウンスは早く飲みたくて、そわそわとあたりを見回している。
鴨緑江のことはまた後ほど、とチェ・ヨンが言うと、
王は後で聞こう、平壌のことも宴の後でよい、今はまずと言って盃を掲げた。
祝宴はチェ・ヨンに親しいものが多く、略式ではじまり、堅苦しさはかけらもなかった。
「ちゃんとお酒を飲むのは、一年ぶりなのよ、ああ、嬉しい!」
そう言いながら、ウンスの盃はかなり早さで空けられていく。
もっと大きな器はないの? と女官に尋ねて困った顔をされたりもしていた。
たいがいになされませ、とチェ・ヨンが時折酒器を取り上げようとするが、
ウンスはしっかりと握って放そうとしない。
「なによお、ひっく、自分はさっきから水みたいに飲んでるくせに」
ウンスに言われて、チェ・ヨンは動きを止めて自分の手に持っている杯を見た。
チェ・ヨンの卓には一人だけ、特別に大きな酒杯が置いてあり、
酒壺から直接そこに注がせては、浴びるように飲んでいる。
それも飲むのは焼酎だけで、葡萄酒は受け付けない。
もう二升ほどもあけたというのに顔色一つ変わらず、ただわずかに目の奥が
座ったような気がする程度であった。
「この馬鹿者は、大酒をくらいますよ」
チェ尚宮が、冷たい目でチェ・ヨンを見下ろしながら、ぼそりと言った。
叔母上、とチェ・ヨンが止めようとしたが、ふんと鼻をならして無視される。
「大の焼酎好きで、若い頃、焼酎のしもべ殿、とあだ名がついたほどです」
今は滅多なことで飲まなくなりましたが、とチェ尚宮は言って、
じろりとチェ・ヨンの大きな酒杯を睨む。
チェ・ヨンの一段下に座を持ったアン・ジェが助け舟を出す。
「今宵は特別の祝いの席、テホグンも酒を飲みたい気分でございましょう。
しかしながら、この男、飲んでも飲んでも、つくづく酔ったか酔わぬかわからない。
とにかくめっぽう酒に強いことはたしかです」
酒がもったないわ、とチェ尚宮が呆れたように言うと、
チェ・ヨンは顔を背けてもう一杯ぐいと飲み干した。
そこで、しばらく王妃と耳打ちしあっていた王が、ふむ、とうなずいて
チェ・ヨンに顔を向けた。
「チェ・ヨン、それでだな、医仙との婚儀はどのような日取りとなりそうか」
チェ・ヨンは意表をつかれたのか一瞬黙ったが、杯を置き、頭を下げて、
それは追々…と口を開きかけたその時。
「婚儀? 婚儀って結婚? ひっく、結婚? チョナ、結婚ですか?
やあだ、そんなはなしはまだ、もうぜんぜん、まだまだ。ねえ?」
酒が回っているのか、ウンスの口調はいつもにましてざっくばらんで、しきりに照れている。
呂律も少々怪しくなっているウンスの言葉に驚いて、王は目を丸くする。
突然横でしゃべりだしたウンスとその言葉の内容に、チェ・ヨンも驚いて顔を向ける。
「医仙とテホグンは言い交わしあっていると聞いていたが…」
これまでに胃袋に流しこまれた大量の酒が、ウンスの舌を必要以上に滑らかにしていた。
「まあ、なんていうんですか、なんとなくそうなるでしょう的な?
そういうのは、ま、あります、はい、それは認めます。ユ・ウンス、認めます」
けどなんと言っても、とウンスは人差し指を立てて、左右に振りながら言う。
「まだね、プロポーズも、ひっく、されていないんですよ」
「プ、プロ…?」
聞きあぐねて王が身体を乗り出す。
「それはいったいどのようなものなのか」
王が不思議そうに尋ねる横で、チェ・ヨンが袖を引っ張ってやめさせようとするが、
ウンスは何度でもチェ・ヨンの手を蠅でも叩くように叩き落として、いっこうに黙らない。
「あ? チョナはご存知ない? まだ高麗にはない? ないですか。
ああ、プロポーズというのはですね、こちらで言いますと、婚書かしら。
大抵は男が女に、うっとりするようなことを言いまして、それから結婚してくれ、
って頼むんです。ひざまずくもよし、指輪を贈るもよし」
ウンスがまくし立てる内容に、王だけでなく、周囲の臣下たちも
耳を傾けはじめ、はあ、と聞き入り一同感心する。
「この時代だって、みんなしてたと思うのよね。
だって小説でも歴史ドラマでもたいていね、ひっく、そういう場面があるでしょう?」
ウンスは失礼にもいきなり王妃を指差して、
ね、王妃様、結婚前に王様からプロポーズされたでしょう、断言した。
チェ・ヨンは何を馬鹿な、という顔をしてウンスを薄笑いで見た。
「そのようなこと…」
戸惑って首を振りかけて、王妃は、あ、と小さく声を上げて、頬を押さえた。
いっせいに皆が魯国公主に注目する。
もちろん、チェ・ヨンもまた驚きを隠せない顔で振り向いた。
「あ、あの、元におりましたとき…それではあれがその、医仙のおっしゃる、プ、プロ」
「プロポーズ、と言うんです」
ウンスが口を大きく開けて言い直す。ね、言われてたでしょ、とウンスが得意げに言うと、
王妃は頬を染めながら、黙ってうつむいてしまった。
まあ、あれが、まあ、と少し動揺したようなつぶやく王妃の横で、
口元に浮かぶ笑みをかみ殺せず、王は照れたように咳払いをした。
*
「どういうことです」
ウンスは典医寺の近くに与えられた部屋へと歩いていた。
正しくは、酔いが回ってまっすぐに歩くことができず、
チェ・ヨンに腕を持って引きずられているといったほうが正しかった。
支えてもらわなければ、倒れてしまいそうなのに、チェ・ヨンは急に立ち止まり、
少しばかり乱暴にウンスを壁にもたれさせると、ウンスの顔の脇に手をついて覗きこむ。
妙に目が座っているのは、やはりさっき飲んだ酒のせいだろうか。
「なにが?」
ウンスは壁にもたれてなんとか立っていた。
壁の冷たい感触が心地よく、顔を横に向けて頬を押し付けようとすると、
チェ・ヨンの手が伸びて、ぐいと顎をつかまれて正面に戻される。
「婚儀に…ついてです」
ウンスが、は、と首をかしげると、チェ・ヨンは怒り含みの低い声で言った。
「俺はあなたと言い交わしていると、そう思ってきました。違うのですか」
うーん、とウンスが考えこむ。
首を何度も、右に倒したり、左に倒したり、腕を組んで目をつぶって考えこむうちに、
立ったまま眠りそうになって、よろめいて、チェ・ヨンに壁へと押し戻された。
「あれは、告白ってやつじゃあないかしら。
わたしが言ってるのはプロポーズ…わかる? プ、ロ、ポー、ズ」
言ってごらんなさいよ、とウンスがからかうように言ったが、
チェ・ヨンはそれが聞こえぬように、ただウンスに目を据えている。
それから、天界のやり方など俺は知りませぬ、と強い口調で言った。
すると、ウンスが酔って力の入らぬ拳で、チェ・ヨンの肩を一つドンと叩く。
それからつっかかるように言った。
「ウエディングはねえ、女一生の夢なのよ」
そんなふうに言い返されると思っていなかったのか、チェ・ヨンは一瞬顔を引いた。
それからゆっくりと壁から手を離すと一歩下がった。
ウンスは回らない舌で、続ける。
「わたしだってねえ、こんなふうにプロポーズされたいわ、とか
こんなレストランで友達を集めてパーティー形式でやりたいわ、とか
人並みに夢はあったんですよ。ねえ、聞いてるの! テホグンチェ・ヨン!」
言い返す言葉を思いつかず、チェ・ヨンは息を吸ったまま、口を半開きにして、
何を言おうか迷っていた。
一度息を吐き、もう一度吸って言い返そうとしたその時。
ウンスが背中を壁につけたまま、ずるずると腰を下ろしてしまった。
行きどころがなくなった言葉を飲みこんで、チェ・ヨンは大きくため息をついた。
それから壁にもたれて寝息を立て始めたウンスの前にしゃがみこみ、
二度ほどその赤っぽい前髪に指で触れると、ひとりごちる。
「まったく、困った人だ…」
そうつぶやいてから、膝と背中に手を入れると、軽々と抱き上げた。
暗い回廊を、さっきまでウンスに迫った荒っぽさが嘘のように、大事そうに抱えて歩いていく。
そのまま部屋まで運んで、寝台の上にウンスをそっと横たえた。
顔にかかった髪を指でなぞり、耳の脇に落としてやる。
暗い部屋の中で、チェ・ヨンは引き寄せられるように、ウンスの顔に自分の顔を近づけようとした。
そのとき。
目をつぶったままウンスが、ぽつりとつぶやいた。
「ドレス姿だって見せたかったの…」
ドレスが何なのかわからなかったが、チェ・ヨンにも言っていることはわかった。
「オモニ…」
酔ったウンスの目尻がぽつんと膨らんで、ひとすじ頬に線が走る。
チェ・ヨンは動きも息も止めてじっとしていたが、そっと身体を起こした。
ウンスの頬を指で拭う。
それから、しばらく暗がりの中でじっと立ってウンスを見下ろしていたが、
椅子を二つ並べると、そこに座って目を閉じた。
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