金銀花を書いていて、医局の部屋を離れる最後の一瞬でウンスがこうしたのでは、と書いたドラマ後のウンスの両親の小話です。
両親二人の会話のみでストーリー、オチはありません。あまり明るくはないです。
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かちゃかちゃと、食器を洗う音がする。
水の流れるジャージャーという音が邪魔で、
ウンスの父は少しだけボリュームを上げた。
テレビでは、また、オリンピックの話題だ。
ロンドン、ウンスは一度学生のときに、女友達と旅行に行っていた。
パブでビールをたくさん飲んで、油っぽいパイをたくさん食べて、
友達は吐いちゃったんだけど、わたしは平気だったのよと、
そんな親が心配するような話を武勇伝のように土産話にした。
ハロッズの可愛らしいバッグを自分とお揃いで母親に買ってきて、
二人で持っていた。
一年に一度くらいお金を貯めて、旅行に行ったが、あとは学業が
忙しくて、あまり遊ぶこともない娘だった。
働くようになってからも、なんだかんだと仕事熱心で、おしゃれなどは
年齢相応に興味があってしていたが、親としては残念だが浮いた話もあまり聞かなかった。
口に出さないで、そんなことをつらつらと思い出していると、
母親が横に来て、ソファに座った。
「銅メダルとったってよ」
なにが、と母親が言うと、父親が、あの弓のやつだ弓の、と答える。
「アーチェリーね」
母親が言いながらテレビのリコモンを取ると、ああそれだ、とうなずいた。
チャンネルが変わる。ドラマ、ドラマ、ニュース、バラエティ、ドラマ。
一巡して見るものがなかったのか、母親はリモコンを置いた。
それから、大きくため息をつく。
「どこ行っちゃったんだろ」
またその話か、と父親が言うと、母親は憤慨したように言い返す。
「だってあなた心配じゃないの。娘が誘拐されて帰ってこないんですよ」
言いながらたちまちのうちに、涙声になる。
ああ悪かった、と父親は少しうんざりしたような声で母親の肩を抱いた。
あなただって心配でしょう、と言われて、もう何度目、何十度目に
なるだろうか、父親は話し出す。
そう、母親は父親のこの話が聞きたくて突っかかるのだ。
「そりゃあ心配だとも。でもな、おまえ。あそこを見てごらん」
父親はテレビの右隅に貼られた一枚のメモを指差す。
母親はいつも通りに、それを見る。
大きな42インチのテレビの肩に貼られた、
黄色いノリ付きの貼って剥がせる正方形のメモ用紙。
ノリがだめになったので、セロテープで貼ってある。
壁に貼りつけたり、いろいろしたが、その場所が一番目に入って、
なくならない、という結論にたどりついた。
「ほら、なんて書いてある」
母親は答えない。
ほら、と父親がうながすと、読んだわ、と鼻をすすりながら言う。
違う、ちゃんと口に出してだよ、と優しく言われて、母親は渋々といった
調子でそれを読んだ。
「ケンチャナヨ(大丈夫よ)」
どういう意味だ、と父親が言うと、母親は、だから大丈夫って意味よ、
と憮然と答える。
あれはウンスの字だね、と父親が噛んで含めるように言う。
うん、と母親はうなずく。
でも、いつ書かれたかだってわからないわ、と母親は芝居の台本に
書かれたもののように、いつもと同じセリフを繰り返した。
「いや、まず誘拐されたときには、なかったものだ。私たちだって医局の
ウンスの部屋に行ったじゃないか。あったなら気がついたはずだ。
そのあと、一度あのこが病院に姿をあらわして、そのあとの警察の調べで
机の上のメモの一番上の一枚にあれが書かれているのが見つかった。
それを私たちが頼み込んで、もらったんじゃないか」
警察はなかなかメモをよこさなかったが、事件との関係性は薄そうだと、
最後には同情もあってか、それをよこした。
「ウンスが病院にあらわれたとき、あのこは怪我をしていたか?
何日も食べていなかったり、服が汚れたりしていたか?」
いいえ、おかしな格好だったとは聞いたけど。
慌ててはいたし、様子がおかしかったけど、怯えたり、
逃げているような様子ではなかったって。
母親は自分に言い聞かせるように、そう言った。
そうだね、と父親が言うと、母親は、そうだわ、と同意した。
荷物を持って、自分で出て行った、と父親は言う。
「自分でね」
母親は、脅されていたのかも、と声を震わせた。
どうかな、と父親は言う。
「つききりで見張られていたふうでもないし、部屋に行って荷物を
持ち出す時間もあった。
必要ならば警察にメッセージくらい残せただろう」
でもあのこが残したのは、この言葉だ。
二人の目が、またメモに戻る。
殴り書きされた「ケンチャナヨ」の文字。
「薬や包帯をたくさん持っていったそうだよ。とても急いでいたそうだ」
父親が言う。
だれかを助けに行こうとしていたのかも、母親が急に思いついたように言う。
父親が、少し驚いたように、母親を見た。
決められた台本のようなこのやり取りに、初めて別のセリフが加わった。
「助けに」
父親がつぶやく。
美容整形外科の医者になる前、あのこは心臓外科医になろうとしていた。
あのこは志のある娘だった。
人の命を救いたい、そうあからさまに口に出すことはなかったが、
そういうテレビ番組があると、食い入るように見入って目を赤くしていた。
「わからないわよ、でもね」
母親は黙ってしまった父親に向かって言った。
「ウンスってそういう娘だわ」
そう言うなり、母親は泣き出してしまった。
ただそれは、いつもの不安げな泣きようとは少しだけ違っていた。
何がどうとは説明できないけれど、悪い涙ではないようだ、
と父親は思った。
あら、珍しいあなたも泣いているの、母親が突然泣く声を止めて、
父親の顔を目をぱちくりさせて、見た。
「ああ、ちょっとだけな」
父親はそう言って、頬に流れたそれを拭って、
母親に向かって、微笑みかけた。
(終わり)
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