「わかるか」
チェ・ヨンに手短かに尋ねられて、チュンソクは、はい、ともっとも短い言葉を返した。
夕暮れの山中、山道は元軍に固められている。
友軍は麓だ。そこに于達赤もいる。
今ここにいるのは、隊長チェ・ヨンと副隊長チュンソクただ二人だけだった。
密使と会うために山を越えた場所へチュンソクのみを伴った。
密命とはいえ、さほど難しくもない任であり、警戒も薄かった。
けだし戻る途中で、焼き討ちの準備をする元軍に気づいたのは幸い中の幸いであろう。
この二人なら、どんな事態もどうとでもなる。
二人ならな、とチェ・ヨンはため息をつきながら、チュンソクの背中を見る。
ついでに腕の中も。
チュンソクは背中に体格のいい中年の女を背負っている。
それだけではない。その女は背に小さな子どもをくくりつけている。
さらにチュンソクは腕に、五つくらいだろうか、男の子どもを抱きかかえているのだ。
目立たぬように、林の中を降りていた。
見つからぬよう獣道を通って下山することも、于達赤の一番手、二番手である二人なら、
さほど難しくないことのはずだった。
ところが、山の中腹に樵の小屋を見つける。
二人は顔を見合わせた。静かに近寄って中を覗くと、女と子が二人。
なんてことだと、チェ・ヨンが顔を覆って、ため息をつく。
「このまま捨て置けば、焼き討ちの巻き添えになるは必須」
チュンソクがたまらずに、チェ・ヨンにささやいた。
チェ・ヨンは、わかっている、と眉をしかめる。
「連れて、降りるしかない」
二人は目を合わせて、うなずきあった。
はじめチュンソクとチェ・ヨンが姿を見せると、女はひどく怯えたが、
チュンソクが丁寧に説明すると、なんとか落ち着きを取り戻した。
いつもの麒麟の紋様も気高い于達赤の鎧も、今日は身分を隠すためにつけておらず、
二人はどこぞの雇われ私兵のような気安さがあったのもよかったのだろうか。
見るものが見れば、この私兵を雇うにどれほどの大枚が必要か、とわかっただろうが、
女から見ればなんとなく頼りがいのあるといった程度のものだった。
この女の夫は商いの話をしに、近くの村落まで行って三日は戻らないという。
女は高麗人で、元軍の話をすると震え上がり、仕方なしに山を降りることを承知した。
山を下り始めてすぐ、チュンソクはこれが相当な難題だと気づいた。
女と子どもの足では、道なき道を行くのはほとんど無理な話であった。
このままでは、いつまでたっても麓につかないどころか、
手間取っているうちに見つかって、すぐに火をかけられる恐れもある。
「テジャン、私が彼らを背負います」
チュンソクがそう言うと、チェ・ヨンは俺もどちらかを、と言った。
「テジャン、それはいけません。一人は身軽で戦えないと共倒れです。
私より腕の立つテジャンが、私たちをお守りください」
そう言うと、チュンソクはチェ・ヨンの言葉を待たずに、女を背負い、
子どもを抱きかかえた。
さすがに于達赤副隊長、それでも少しもよろめいたりはしなかった。
また獣道を下り始める。
明るい足元が確かなうちに、できるだけ下っておきたかった。
ほとんど小走りのようになりながら、ひたすら下る。
一刻下っては少し休み、半刻下っては隠れしながら、半ばほども下ったところで、
とうとう日が暮れた。
「少し、休むか」
冷えこんできた山中にあって、チュンソクの額にはたまのような汗が浮かんでいた。
いえ、大丈夫です。それよりも先を急ぎましょう、とチュンソクが言う。
チェ・ヨンはしばらくじっとチュンソクの顔を見ていたが、
うなずくと、進み始めた。
山の日暮れは早い。みるみるうちに暗闇が辺りを浸す。
暗いほうが、見つからなくて好都合です、とチュンソクは言うが、
足元が見えなくなるので、危険でもあった。
女も子どもも黙って、辛抱強く担がれている。
あたりが真っ暗になってしばらく経った頃だろうか、チェ・ヨンがいきなり山の上の方に
顔を向けた。
「走りますか」
わかるかと問われて、チュンソクは何かの気配がいつのまにか周りを
取り囲んでいることに気づいた。
「まずい」
チュンソクは元軍に見つかったかと辺りを見回す。
人間じゃない、とチェ・ヨンはささやく。
「走るぞ!」
チェ・ヨンが言うと同時に、チュンソクは斜面を滑るようにして駆けはじめた。
チュンソクの後ろで、剣が鞘走る音がした。
続いて、ひう、と剣が振り下ろされる音がして、チュンソクの横をどおっと
何かの塊が転がり落ちていった。
山犬だ、と腕の中の男の子どもが、息を呑むように言って、
チュンソクにしがみつく手を強くした。
豺(サイ:アカオオカミ)の群れが、女子ども連れに目をつけて、あとをつけてきたのだ。
群れになって、走るチェ・ヨンとチュンソクの周りを取り囲むようにして、追ってくる。
時折背中や腹に飛びかかって噛み倒そうとするのを、チェ・ヨンの剣が斬りはらう。
すばしこく、樹木の茂った中から襲ってくるので、剣で斬って打って引かせたり、
追い払うことはできるが、仕留めることは難しくて、
なかなか数を減らすことができない。
「開けたところを探して、一度片付けるか」
走りながらチェ・ヨンがチュンソクに言う。
チュンソクは顔も身体も汗びっしょりである。
この長い距離を人を背負って駆け下りているのだから当然だ。
チュンソクは少し前の足元を一心不乱に見ながら、チェ・ヨンに言った。
「いえ、そうしている間にも新しい山犬が集まってくるやもしれません。
私のことなら大丈夫です」
確かにそうだ、とチェ・ヨンはうなずく。
ただ、ここから麓までまだ数刻、闇の中を走り続けることになる。
果たしてチュンソクの足が持つのか。
走らなければ、山犬はたちまちのうちに群がって、チェ・ヨンやチュンソクは
ともかく、女子どもには何かしらの被害があるだろう。
「本当に大丈夫です。それ以外に方法はありませぬ。
テジャン、やらねばならぬのなら、やるまでです」
走りながらそう言うと、チュンソクは自分の身長ほどもある岩から飛び降りて、
また走る。
「これから、揺れますが、なんとかこらえてください」
そう背中の女と手の中の子どもに言うとチュンソクは、転がり落ちるように
走り続けた。
「それで、こいつどうしたかわかるか」
ウンスは、この話の危機的状況に入りこんで、うっすらと涙まで浮かべている。
他の于達赤も、拳を握り締めて没頭して聞いている。
トクマンなど、クッパを持つ匙を空中で止めて、口をぽかんと開けたままだ。
皆がふるふると首を振る。
「それから三刻、麓まで脚を止めずに、走り通した。
最後には喉がひゅうひゅうと風のように鳴って、汗が傍らを走る俺まで飛んできてな」
ふ、と笑ってチェ・ヨンはチュンソクをちらりと見た。
皆も、目を丸くしてチュンソクをいっせいに見た。
チュンソクは、背筋を伸ばして、なんでもないという顔を作ろうとしたが、
すでに顔が赤くなっている。
走ってる最中、何度も足に噛み付かれたから、下山してから見たら、
脛から下が血だらけだった、とチェ・ヨンが言うと、皆がいっせいにチュンソクの足元を見る。
チュンソクは居心地悪そうに、足を少し手前に引いた。
「あれでよく走れたものだ。今でも傷が残っているだろう」
見せてくださいよ、とトクマンが言うと、チュンソクは、いやそんな見せるようなものでは、
と顔の前で手を振る。
トクマンとトルベとテマンがいっせいにチュンソクの足に取りつく。
「あ、お前ら、や、やめろっ!」
何をする、と蹴りつけるチュンソクの抵抗をものともせず、トクマンが羽交い絞めにして、
テマンとトルベで三人がかりで脛をあらわにする。
「あっ、すげえええ!」
テマンが感嘆の声を上げる。他の于達赤も、どれ見せてみろと、どやどやと
集まって、チュンソクの足を見ると、明らかに刀傷とは違う、獣の噛み傷、
爪傷の跡が無数に走っている。
あちこちから、おお、本当だ、これはすごい、と声があがる。
「おいおい、お前らいい加減にしろ」
そう言いながら、チュンソクは心持ち嬉しそうでもある。
男たちの人垣に、傷を見られなくて、ウンスはぴょこぴょこと飛び跳ねて、
後ろからチュンソクの脛を見ようとしていたが、痺れを切らして
わたしにも見せて! と大声を出す。
前に押し出してもらって、傷を見ると、ウンスは息をのんだ。
「これは、まあ、ひどい傷ね。神経に障りがなかったのが幸いだわ。
よくもまあ狂犬病にならなかったもんよね。
それにしても、さすがプジャンだわ。ほんと、わたし感動したわ!」
そうウンスが力をこめてチュンソクに言うと、チュンソクはもう顔を真っ赤にして、
いやいやいやそんなそんな、としか言えなくなる。
「それにしても、こんなすごい話、なんでみんな知らなかったの?」
とウンスが言うと、だって、プジャンから、そんな話聞いたことありませんでしたもん、
とテマンが言う。このようなこと、したり顔で自ら吹聴するようなものではございません、
とチュンソクが言う。
「でも、この話は、チュンソク、あなたとテジャンしか知らないわけでしょ」
ウンスは、腰に手を当ててチェ・ヨンの方に向き直る。
チェ・ヨンは、皆がいっせいに自分の方を見るのを、ん? と見返す。
「何が仕方がない、よ! あなたが話さなかったら、こんなすごい武勇伝なのに、
誰にもわからないでしょう!」
そうか、話していなかったか、と少し笑いながらチェ・ヨンが言うと、
チュンソクは、テジャン…、と小さくつぶやいた。
まったく、と言いながらまた皆の方に向いて、ウンスが口を開いた。
「みんなの話、すっごく感心したわ。于達赤って本当に優秀な部隊なのね」
于達赤たちはウンスに褒められて、みな肘でつつきあったり、にやにやと笑ったりしている。
ウンスは、椅子に座り直して、その場の于達赤を見回して、ねえ、それで、
とまた話しはじめた。
「結局、だれが一番強いの?」
皆が顔を見合わせ、誰も彼もがいっせいにチェ・ヨンを指差す。
チェ・ヨンは当然といった風情で、何の反応も見せはしない。
ウンスが慌てて、首を振る。
「ああ、テジャンは別にしてよ。
テジャンをのぞいた隊員の中で、一番強いのはだれ、ってこと」
すると、皆がもう一度顔を見合わせて、今度もいっせいに指差した先は。
「おれ!?」
テマンは少し驚いた表情をして、自分の顔を指差した。
まあ、そうだよな、とチュソクが言うと、うんうん、とチュンソクがうなずく。
トルベはちっ、と舌打ちをしたが、否定はしなかった。
テマンは、俺なの、俺なのか、と周囲に聞きまくっている。
「うそお! テマンなの?」
ウンスが驚きの声をあげると、テマンが、医仙殿、嘘、はないでしょうが、
と抗議の声をあげた。
「ほんと?」
ウンスが振り返ってチェ・ヨンに向かっていうと、本当だ、と一言返される。
「剣術も槍術も弓術も、テマンはさほどの冴えはございませんが、
とにかく実戦となりますと、この者はずばぬけた力を見せますゆえ」
チュンソクがそう説明すると、トクマンが割りこむ。
「でもこいつ、于達赤じゃないし」
トクマンの言葉に、テマンが、あ、そうか、とつぶやく。
皆が、そうだそうだ、医仙殿は于達赤で誰が一番かと聞いたのだ、
それじゃあ誰だ誰だ、と騒然となる。
それから、その後は、たくさんの于達赤たちの武勇伝自慢が続いたのだが、
それはまた、別のお話。
(おしまい)
五番勝負と言いながら、三人の武勇伝のお話でした。
トクマン、トルベ、チュンソク、ヨン、テマンが五人ってことで。
ちなみに武勇伝の元ネタは、「マトリックス」「ロード・オブ・ザ・リング」「め組の大吾」でございました~。
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