屋敷まで数十歩、急ぐほどの距離ではないのだが、チェ・ヨンの足は速く、
ウンスもそれを追いかけるように早足になる。
裏庭の見えるウンスの部屋は外に向かって両開きになる戸窓で開け放てる。
その戸窓をつかむと、チェ・ヨンは一枚だけを手前に引いて開けると、
履物を蹴散らすように脱いで中に上がった。
ウンスが履物を脱ぐやいなや手を引いて、部屋の中の戸横の陰に引き込むと、
夢中でウンスの顔を両手で包み、ぶつけるように口を合わせると、ただ無言で
何度も角度を変えた。
ウンスを飲みこもうとでもするように、舌が口の中を強くこすりあげる。
「お会いしたかった」
性急だった口づけが、ようやく少し落ち着きを取り戻す頃、頬をつかむようにしていた手を、
ウンスの身体に下ろして抱きしめながら、チェ・ヨンはそう言った。
口づけで紅潮していたウンスの顔が、さらに首元までかすかに赤らむ。
屋敷を空けた後に戻ると、チェ・ヨンは必ず第一声そうウンスに言うのだ。
気の利いた言葉でもなんでもないが、率直に告げられる気持ちに、
ウンスはいつも頭に血を上らせてしまう。
ウンスが何か答える前に、また口はふさがれて、戸にもたれたままずるずると、
二人して座りこむ。
しばらくすると時折口が離れて、見つめ合う時間が増えてくる。
唇が遊ぶように、触れたり離れたりを繰り返しながら、
チェ・ヨンはウンスに尋ねるのだ。
「このひと月半、都に何かかわりはありませんでしたか」
開京のことなど、手裏房やら于達赤から逐一報告を受けていて、知らぬことなど
ひとつもないはずなのに、数日でも屋敷を空ければいつも律儀にそう尋ねる。
「診療所に、少しずつ人がきてるの。やっぱり今でも病気の人はあまり来ないけど、
怪我人はずいぶん運びこまれるようになったわ。お屋敷のユ先生のところに行くと
身体を縫い針で縫われるが、その代わり血が止まって傷口も腐らないって評判よ」
高麗の人々は薬を信用しないので、ひどく嫌ってなかなか飲もうとはしない。
ウンスの診療所にも、最初は木戸の外から中を覗くひとばかりが多くて、
患者などひと月ほども一人も来なかった。
仕方がない、女の医員というだけでひどく珍しいし、何よりは大護軍のお屋敷だ。
ただウンスが、石鹸やら歯磨き粉やら自家製のクリームやらを、屋敷の使用人にまず配り、
それの評判が広まると、女たちがちらほらと覗きに来るようになり、
そうした女たちの子どもや夫の怪我を診てやるうちに、
ごくわずかずつだが患者が増えてきたところだった。
「それはよかった」
チェ・ヨンは心からほっとしたようにそう言った。
婚儀を上げた皐月の末に診療所を開き、竹春のころまでのウンスの退屈ぶりといったら
なかったのだ。
夏の暑さもあいまって、戸窓を開ききって、部屋の縁に座って脚をぶらぶらとさせて。
皇宮から屋敷に戻って、チマをまくりあげ、膝下を白くあらわにして庭に向けて
放り出したままぼんやりと寝転がっているウンスを見たときは、
チェ・ヨンは思わず駆け寄って、乱暴にチマを引き下ろした。
ウンスは、いいじゃない、自分の家なんだから、と不満顔だったが。
「あなたが出立の前に、元医仙の診療所、と看板を書こうか、と言い出したときは
どうしようかと困り果てました」
冗談に決まっているでしょ、とウンスが口を尖らせる。
チェ・ヨンは嬉しそうにそれを指でつまもうとして、ウンスに嫌がられて、笑う。
これまでも数日、十日程屋敷を開けねばならぬことはあったが、このたびは
重陽の佳節(九月九日)の翌日から、ひと月半もの間、慶州に行かねばならなかった。
することがないウンスが何をしでかすか、チェ・ヨンは口には出さなかったが、
気が気ではなかったのだ。
そんな風なとりとめのない話を聞きながら、チェ・ヨンはウンスの髪を触ったり、
唇を指でこすったり、指に触れたりと忙しい。
それでいて目はじい、とウンスにすえたままだ。
聞いてるの? とウンスが聞くと必ず、聞いております、と答えるので、
ウンスはもう大分前に尋ねるのも止めてしまった。
ウンスの声が言葉よりも、意味のない息遣いばかりが多くなるころ、
ねえ、とウンスがしゃべるのをやめる。
「どうする、寝屋に行きたい?」
そう言いながら、顔を前に出してチェ・ヨンの下唇を少しだけ、噛む。
すると、チェ・ヨンの目をすぐに熱が覆い、また手を両頬に添えて、
何度かウンスの唇を深く吸った。
だというのに口を離すと、真面目に考えこんで黙ってしまう。
「どうしたの?」
思っていたのとは違った反応に顔を覗きこむと、目があった。
「実は、寝屋に行くには、少しばかり障りが」
と言うチェ・ヨンの声は妙に深刻そうだ。
急に心配になって、ウンスはチェ・ヨンの額に手を当てる。
熱はない、顔色もよい。
「慶州から開京まで八日ほど、風呂にも入れず、水浴びもできておりません」
何を言い出すのかと思っていれば、チェ・ヨンはそんなことを言い出した。
雨にも降られましたし、かと思うと秋も深いというのに日射しが強く汗ばむ日も、と続ける。
ウンスの目が細められ、何が言いたいのと、微かに苛つきがよぎったのを見て、
チェ・ヨンは、結論を言う。
「何が言いたいのかと言うと、俺はちとばかり」
ウンスから視線が外れ、がっかりしたような表情がチェ・ヨンの顔に浮かぶ。
「きたない」
ぷっ、とウンスが噴き出す。
それなら、ヨンシクに湯浴みの支度をしてもらいましょう、とウンスは立ち上がる。
準備ができるまで、何か食べて待っていればいいわ、
と厨屋に行こうとするのを座ったまま、手をつかんで引き止めて。
「湯など沸かさずとも、水でかまいませぬ」
と言い放つ。そのせっかちな言葉に、ウンスは思わず笑った。
それから、チェ・ヨンの腕を引っ張り上げて立たせると、くん、と鼻を鳴らした。
そして、からかうように言う。
「なんなら、ご一緒しましょうか」
チェ・ヨンは目を見開いて、一瞬言葉を失った後、噴き出した。
「まったく、あなたという人は」
そう言ってひとしきり笑った後、笑みを収めてウンスに顔を寄せ、真面目な顔で
わざとらしく思い悩んだ口調で言う。
「本気でおっしゃったのですか、それとも戯れ言か。
看板の件があるので俺には判断がつきませぬ」
今度はウンスが噴き出して、チェ・ヨンの胸を拳でとん、と叩いた。
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