「それで、どのような子細でこうなったのか、とにかく一から話せ」
チェ・ヨンは屋敷の部屋に寝床を延べて横にならせたシウルの横で、
膝を立てて座り、詰め寄るように顔を覗きこんだ。
秋の短くなった昼間は瞬く間にすぎて、もう外は日暮れかけていている。
話を聞こうとするチェ・ヨンをウンスが押しとどめて、押しとどめて、
ようやく話してもよい、となったばかりだった。
ウンスは迫るようなチェ・ヨンの物言いに、軽く胸を押して下がらせる。
「ねえ、シウルは心臓が止まりかけたのよ? わかってるの!?
元々のものではなさそうだから、大丈夫だとは思うけど…。
まだ絶対に無理させないでね」
ウンスと知り合った頃に短かった髪は、肩ほどに伸びて幾分大人びたが、
細面はそのまま、身体も小柄なままなので、少年のようでウンスはつい
シウルをかばってしまう。
そんなことはわかっております、とチェ・ヨンが急いたように言うと
少しぐったりした様子のまま、シウルが口を開いた。
「今聞かなきゃ、俺をこんなめに合わせたやつが、逃げちまうって言いたいんだろ」
ジホがそう言うと、チェ・ヨンは、わかってるじゃないか、とうなずいた。
シウルとマンボ姐はチェ・ヨンの真向かいに、ジホを挟んで座っている。
シウルとは反対に、ジホはずいぶんと背が伸びて、チェ・ヨンと並んでもさほど
引けをとらぬほどだ。
その図体ばかり大きくなった身体を、乗り出して心配げにシウルを見ている。
「俺とジホで、成均館の近くをうろついてたんだ」
チェ・ヨンが近くとはどのあたりだ、と問いただすと、まだ苦しそうな
シウルからジホが話を引き取った。
「南大門から子男山の麓の街道を抜けると、成均館の南側の通りに出るだろう。
あの辺りだよ。あそこの辺りは、儒生がうろうろしているからな」
マンボ姐が、儒生さんの中には口が軽いやつもいてね、面白い話がたんと聞ける、
とウンスに耳打ちした。
「あいつら、いいとこの貴族のご子息ばっかりだからな、
俺とシウルはよく通りをぶらついたり、茶を飲んだりするんだ。
まあ酒房が一番当たりを引ける」
だから今日も昼間から、酒と肴を出す店に入って、腹ごしらえをしていたんだ、
酒が入ると、高官の親たちが握ってる秘密をぺらぺら吹聴するやつがたまにいるんだ、
とジホは小馬鹿にしたような口調でそう言った。
「その酒房に、そいつらがいたんだ」
シウルが、寝床でそう言った。
そいつら、とチェ・ヨンがつぶやく。
「もちろん儒生じゃないさ。刀をさして胡服を来ていた。刀に赤い布を巻いて」
チェ・ヨンが顔をしかめる。
「そう紅巾さ」
マンボ姐が吐き捨てるように言った。
「紅巾…紅巾の乱、えーと1357年。白蓮教による農民の反乱、だっけ?」
ウンスが思い出すように言うと、皆がいっせいにウンスに視線を向ける。
ああ、何でもないの、とウンスは顔の前で手を振った。
チェ・ヨンの眉間に皺がよる。
しばらくなりを潜めていたはずなんだが、と低い声で言う。
「ここんとこ急にだよ、ちらほらと見かけてさ。
特に悪さもしないで、貿易商人に混じって人足としてやってくるから、
こっちも見てるだけだったんだ」
なのに、とジホが悔しそうに言って、床を拳でどんと殴った。
マンボ姐がたしなめるように、ジホの背中に触れた。
「今日に限って、シウルに絡んできやがって。
喧嘩の発端なんて、もうよく覚えてねえよ。
あいつらの卓にシウルがぶつかったとかそんなことだ」
言いがかりだ、とジホは大声で言って、シウルに寝床の中から、
ジホ、うるさい、とつぶやかれて、ごめん、と肩を落とす。
「絡まれて面倒くさかったから、シウルは屋根に上がったんだ。
それで屋根の上から、そいつをからかったんだよ」
お前らみたいな鈍臭いやつらに俺が殴れるか、って、とシウルは自分で言った。
そうしたら奴らの一人が飛ぶように上がってきて、しまったと思ったときには、
とシウルは言葉を切って、両手を上に向かってそろえて突き出して、
こうやって突き飛ばされた、とやって見せた。
ジホが無念そうに、ぎゅうと拳を握る。
「それで、そいつらはその後、どうした」
チェ・ヨンが尋ねると、ジホが少しうろたえたように答える。
「それが、シウルが気を失って、俺、慌てちまって…」
チェ・ヨンは一つため息をついたが、ジホを責めるようなことは言わなかった。
とにかく、とチェ・ヨンは二人に向かっていう。
「金吾衛に知らせて、少し調べさせることにする。手裏房でも探りを入れてもらいたい」
そりゃあ、仲間をこんな目に合わされて、黙っちゃいないよ、とマンボ姐が言った。
ジホはうなずきもせずに、きつい眼差しでシウルを見ている。
話の切り上げどきだと見計らったウンスが、話に入る。
「今日はシウルはここに泊まっていらっしゃい。一晩は様子を見たいし。
シウルの横に、ジホの床を延べさせるわ。悪いけどジホ、夜の間、シウルの様子に
注意を払ってほしいの。わたしも何度かは見に来るから」
ジホがこくりとうなずく。
マンボ姐さんは、わたしの部屋に床を並べればいいわ、とにかく皆さんお腹がすいたでしょ、
夕飯を作ってもらってるから、もう少し待ってね、シウルは重湯だけよ、
とこの屋敷の女主人らしく、ウンスがてきぱきと話を進める。
「手裏房の皆さんには、いつかお礼をしたかったの。特にマンボ姐さんには」
昼間のうちに言いつけて、少しばかりご馳走を用意した。
ウンスが元にまで知れ渡った医仙ではなく、外つ国から大護軍がかどわかしてきた女人で、
だから風変わりなのだ、で通っているのは、手裏房の力が大きかった。
出征の地で激しい恋に落ちたのだとか、いや無理やりさらったのだとか、
ウンスが親兄弟のために命乞いをしてついてきたのだとか、
今でも多くの噂がウンスにつきまとってはいるが、
それに覆われて医仙という言葉は聞かれない。
噂話を集めるのが手裏房なら、噂話を広めるのも手裏房だ。
大護軍の奥方で、偉い医員の先生に、直接噂を問いただすものはごく少なく、
ウンスはさあどうかしら、と微笑んでみせたことが数度あるだけだった。
とにかくお腹いっぱい食べていってね、とウンスはマンボ姐の手をぎゅっと握る。
マンボ姐は、そんなこと気にしないでいいのに、と照れたように言った。
ふと顔をあげると、チェ・ヨンが何か言いたそうな顔で、ウンスを見ている。
「なあに? わたし何か忘れてるかしら。ほかに差配したほうがいいことある?」
ウンスが指を折りながら考えこむと、チェ・ヨンは少し慌てたように、いや何も、と目をそらす。
心なしか表情に陰りがある。シウルのことが心配なのね、とウンスは心が痛んだ。
それから、皇宮に使いを出す、と言ってチェ・ヨンは場を離れた。
気づいたことがあったら言ってね、とウンスが背中を追いかけるように言うと、
床のシウルがすまなそうに言った。
「ユ先生、ヨンのやつ、ひと月半ぶりに戻ったばかりなんだろ? ごめんな」
なぜ謝るの、とウンスは首を傾げたが、ひと呼吸置いて、シウルの言葉の意味を飲みこんだ。
さっきのヨンの顔の意味がわかって、みるみるうちに、ウンスの顔が紅潮する。
動きを止めてしまったウンスの背中を、マンボ姐がぽんぽん、と慰めるように叩いた。
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