チェ・ヨンが、ためらうように蔓ニンジンを摘んで口に運ぶと、
口に入れ含んで、しばらくすると噛み砕くいい音がした。
腕を上げましたね、とぼそりと言うと、飯をかきこんで、もう一度箸を伸ばした。
テマンが追いかけるように口に入れて、本当だ、と驚いたように言って、
それからかぶも食べて、こっちもいけますよテホグン食べられます、
とチェ・ヨンに声をかけた。
練兵の最中のように強張っていた二人の顔が、ほっとしてほどける。
「ちょっと、ちょっと、ちょっとっ!」
ウンスは自分は汁物をすすりながら、二人に抗議するように声をあげる。
今度はちゃんと教えてもらってやったって言ったでしょう、信用してよ、
とウンスが言うと、チェ・ヨンが真顔でウンスに顔を向ける。
「しかし、先にあなたがお作りになったものを食べたときは…」
チェ・ヨンは思い出したのか、ぶるりと身震いする。
死にかけました、とテマンが拳を握りしめて、言葉を引き継ぐ。
大げさなこと言わないでよもう、とウンスが盛大に口を尖らせる。
「あのね、わたしがいたところでは、漬物には唐辛子を入れるが普通なの。
高麗の漬物が辛くなかったなんて、こっちに来るまでしらなかったんだから」
わかっております、とチェ・ヨンがなだめて、今度は生姜とともに
漬けこんだというかぶを、がさりと箸でとって口に運ぶ。
「でも最初に食べたときは俺、ユ先生がテホグンに、ど、毒をもったんだと、
本気で思いかけましたよ。テホグンがきっと何かやらかしたんだ! って」
そんなことするわけがないでしょう、とむくれるウンスの横で、チェ・ヨンが
吹き出しそうになって口を押さえ、それからむせて急いで茶を喉に流しこむ。
大丈夫よ、この沈菜(チムチェ:キムチの原型)以外、わたしが作ったものはないから、
とウンスが告げると、チェ・ヨンとテマンは安心したように、
すべての料理に箸をつけはじめた。
皇宮の料理と違って、屋敷で食べるものは、ほとんどが野菜の料理で、
魚や海老、貝が比較的豊富に加わるが、禁止令もあるので肉は出ない。
肉が食べたい、ぶ厚いステーキとは言わないから、ちょっとでいいのにね、
と時折もこぼすウンスの様子があまりにも哀愁ただようものだったので、
チェ・ヨンは、皇宮の遣使などが来た時の特別な宴席で出る肉料理を
包んで持ち帰ってくれることがあるくらいだ。
今日は明日のチェ・ヨンの出征を控えて、肉はないが魚の煮付けや貝の汁が
膳には並んでいた。せめてもの心づくしというわけだ。
テマンはいつもより幾分豪華な食事に、うきうきと箸を伸ばしている。
「ウダルチを、開京に残すことにいたしました」
そう言ってから、チェ・ヨンは口元で止めていた箸をまた動かした。
ウンスはチェ・ヨンに顔を向けて、しばらく黙っていた。
王の近衛である于達赤隊が王都に留まるのは通例で、取り立てていうほどの
ことでもないのだが、少し前にテマンが、この度の遠征は于達赤隊とともに
まいれそうです、と嬉しそうに話していたのだ。
「何かありましたら、すぐにチュンソクに」
探るようなウンスの目に、チェ・ヨンが飯碗と箸を膳に置いた。
はあ、とため息をつく。
「シウルのこと、トギの話…紅巾のことが気がかりです。
ですから、開京の守護にも念には念を入れたく。
もちろんあなたの為というだけではありませぬ。
ウダルチは王の護衛が本来のお役目でありますから」
わかったわ、とウンスは安心させるように、チェ・ヨンの膝をぽんぽん、
と軽く叩いた。
アン・ジェには話が通っております。それから、開京への旅の折、
同道した中郎将のオ・ソクチェ覚えておられますか。あいつの住む屋敷が
近いので、気にかけるよう話しておきました。金吾衛には巡警の強化を
言いつけました。屋敷には、朝晩の二回、チュモが立ち寄る手はずになって
おります、それから、と続けようとしたチェ・ヨンの手をウンスがぎゅ、と
つかんだ。
「大丈夫よ、みんなが守ってくれるわ。大丈夫。
いざとなれば、皇宮へ行くわ。チョナの元なら安心でしょ」
ウンスがそう言うと、早口になりかけていたチェ・ヨンは、言葉を飲みこんで、
ふうと息をつく。
そうですね、と自分に言い聞かせるように言うと、また飯碗と箸を持ち上げた。
チェ・ヨンは結局、イ・ソンゲとの再会をウンスに話せずにいた。
イ・ソンゲが開京を離れて十日程が経つ。
いくらでも話す機会はあったが、あの男と自分にまた縁がつながったことを、
ウンスがどのように思うか、チェ・ヨンにはよくわからなかった。
イ・ソンゲが自分を殺す、とウンスは言う。
ウンスが言うのなら、きっとそうなのだろう。
だからといって、あの男を今憎め、今離れろと言われても困る、とチェ・ヨンは思った。
もちろんウンスはどうしろ、などということは言わないが。
何かをするかもしれぬ、というだけで人を罰することはできぬのと
同じように、先々の起こるかもしれないというだけで、そいつと縁を切るなど
どうすればできるのか、見当がつかない。
チェ・ヨンはこれから行く先にいる、イ・ソンゲや徳興君について、思いを巡らす。
「それで、あなたには誰が着いていくの」
ウンスが気がかりではないが、ただ気になる、という風を装って、尋ねる。
自分がぼんやりとしていたことに気づいて、チェ・ヨンは急いで飯をかきこんだ。
京軍から精鋭を五百余、それから州軍から二千が出兵いたします、と答える。
「そうじゃなくて」
ウンスが焦れったいような気持ちで問い直すと、テマンが代わりに答える。
「俺がいっしょです。俺がついていきます、どこまでも」
ウンスが顔を上げて、テマンと目を合わせる。
テマンは大きな笑みを浮かべて、それから勢いよく飯を口にかきこんだ。
ウンスは髪にまだ触れぬ指の先触れで、眠りから覚めた。
ふと気づき、待っていると、こめかみのあたりから、つと髪を耳にかけるように動く指が、
ゆっくりと耳の傍らをたどる。
顔を覗きこむ気配に、薄く目を開けた。
「寝かせてやりたくもあり、起きてほしくもあり、迷うておりました」
背後からウンスを抱きかかえて寝ていたチェ・ヨンが、半身を少しだけ起こして、
ウンスの横顔を見ていた。そのまま髪に顔を寄せる。
チェ・ヨンは髪をかきわけるようにして、首筋や緩やかにはだけた肩元に口付けた。
「もう朝なの?」
朝というには、まだ少しばかり早い、薄らともやがかった光が
ようやくさしてこようという時間だった。
気を緩めれば眠りに戻ってしまいそうなウンスを、
おざなりに結ばれた夜着の帯をするりと解いたチェ・ヨンの手が引き止める。
腹や脚を、小傷だらけのはずなのに妙に滑らかな指がさする。
ウンスは眠気からか、それともその指のせいなのか、よく判別のつかぬ声をあげる。
「お嫌なら、こらえますが」
心底惜しそうに、チェ・ヨンは言ったが、そう言いながら手は胸へと上がり、
両手で押揉みながら、熱い息をウンスに吐きかける。
「お嫌ではないですけど」
ウンスはくくっと笑いながら、そう応じた。
実を言えば、昨晩の名残でウンスのそこは熱を持ってかすかに腫れ、
今でもどんよりとした感覚がただよっている。
あと数刻ののちに出陣する夫にそれがなんだろうか。
チェ・ヨンの手が、片方下にうつり、腹の奥の燠火のようなそれを、
かきたてるように何度も細くなぞる。
ひりつきが、緩やかに甘く切ない感覚に変わって、ウンスが身体を蠢かすと、
後ろから抱きしめるチェ・ヨンの息づかいが早くなる。
「何度しても飽きたらぬ」
はあ、と息をついてチェ・ヨンはウンスの片脚を腕で抱えこむと、
熱を帯びたそこに後ろからゆっくりと自分を埋めた。
ウンスの耳元で、長く熱っぽい息が、吐き出される。
深く根元まで埋めると、低く唸りながらたまらぬといった風情で、
ウンスを両腕で強く抱えこんでひとときじっと味わった。
ここからは決して離れたくないとでも言うように。
白白とした清い朝の中で、二人の立てる音だけが、
場違いなほどに湿り気をおびている。
朝の支度のために、使用人が起き出した気配を感じて、
ウンスははっと声をこらえた。
チェ・ヨンは、それに気づいて、後ろからウンスの口を、大きな手の平で覆った。
ウンスは自分の手で、チェ・ヨンの手をぐっと顔に押しつけて、耐える。
「噛んでも」
かまいませぬが、と言うチェ・ヨンに、ウンスが首を振る。
口を閉じていられないのか、手の平に濡れたような感覚があり、
それが余計にチェ・ヨンを高ぶらせる。
強く何度も突き上げられて、ウンスが身体を震わせると、
しばらくしてチェ・ヨンもウンスを痛いほどに抱きしめてから、身体の力を抜いた。
屋敷の表に出ると、すでにヨンシクが馬の手綱を引いて立っていた。
その後ろに、ヨンシクの母親、下働きに通ってきているスンヒもすでに控えている。
出てきた二人に、深く頭を下げた。
テマンは自分の馬を引いて、ごく当たり前のように支度をすませて待っていた。
「それでは、行ってまいります」
チェ・ヨンはウンスに向き直ると、馬に乗る前に律儀にそう言った。
「いってらっしゃい」
目の奥に力を入れて、笑顔を作って手をふる。
行ってほしくはないが、早く出発してしまってほしかった。
鼻の奥がつん、と痛くなる。
屋敷の中に走って逃げこんで、布団をかぶって寝てしまいたい、
と思いながら、ウンスは強張った笑みを浮かべていた。
「あなた、ご武運を」
ウンスは、そう付け加える。
ああもうちょっと心がこもっているふうに言えたらいいのに。
ヨボ(あなた)、と呼びかけることに、まだ違和感がある。
チェ・ヨンからイムジャと呼びかけられることにはこんなに馴染んでいるというのにだ。
試しに一度冗談で、いくつか現代風の呼び方を試してみたら、ひどく怪訝な顔をされて、
自分に呼びかけられたのも、わからない様子だった。
後で意味を説明すると、そのようなけったいな呼び方は、人前で決してせぬように、
と真剣な顔で戒められた。
帰ってきたら、ヨンア、と呼んでみようかな、とウンスは騎乗したチェ・ヨンを
見上げながらふと思った。
高麗の大護軍チェ・ヨンじゃなくて、わたしの夫、ヨン。
門を出て、チェ・ヨンは一度ウンスを見る。
そしてうなずいて、視線を王城へと向けると、振り返らずに走り出した。
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