開京南大門の上から、遠くにまで赤々と続く松明の群れを見て、
護軍アン・ジェは思わず息を飲んだ。
昼間には千ほどに見えた群民は、城壁の上から弓矢で威嚇すると、
わめき罵りながらも後退し、矢の届かぬところで座りこんだ。
しかし夕暮れてあたりが薄暗くなったいま、その数はゆうにその十倍ほどに膨れ上がり、
そのそれぞれが松明を持って、城門前に詰め寄ってきている。
「耕人田子と侮るな。これは、叛乱の平定どころの話ではない。これは…戦だ」
アン・ジェは傍らに控えた中郎将に向かって、低い声でそう言った。
人群れの後ろの方で、誰かが何かを叫び、するとそこを中心に怒号が上がる。
それが周囲に広がって、地に轟くようなときの声となる。
城壁の上に衛兵が、気圧されたように一歩下がった。
「上護軍殿より、ご指示はまだか! 城へ、もう一度使いを走らせよ!」
この群れが田を襲ういなごのように動き出す前に、火矢で前面を蹴散らし、
その意気をくじきたいと、アン・ジェは考えていた。
二度ほど皇宮に伝令を走らせたが、未だ返答はない。
こんなにも人の集まる前に、一度威しをかけておきたかったというのに、
アン・ジェの手の平に握った爪が喰いこむ。
「チェ・ヨンがおらぬ時に!」
アン・ジェは歯ぎしりをしながら、口の中で呟く。
一騎当千の左右衛の精鋭も今この時開京にいない。
背中を何か冷たいものが這い上がるようなべとりとした感覚が、アン・ジェを覆った。
「紙と筆を持て。馬を二頭、待たせよ。
一頭には、身体強健で身軽な者を乗せよ。
四日、いや五日乗り通しになる」
近くにいた中郎将にしか聞こえぬ声で、アン・ジェは呟いた。
そして、密かにせよ、と付け加える。
すぐに紙と筆がもたらされる。
指揮卓の上に渡された紙を広げると、アン・ジェは筆を走らせ始めた。
「なぜ戦況がわからぬっ!」
便殿の王の御前で、大護軍貢夫甫は、伝令を待って苛々と肩を揺らした。
先ほどから何度か人を出したが、一向にそれが戻らない。
外はすでに日が暮れている。
門外に人が押し寄せているというのに、城内はそれが嘘のように静かだ。
どこかで遠雷が鳴っている。
雨が降るのか、そう思って、それから王はそれが、
城壁を取り囲む群民のときの声であると気がついた。
「恐れながら、チョナ。これは何かおかしいと言わざるをえません」
確かに何かがおかしかった。
朝方に開京近郊まで千人が押し寄せているという知らせが入り、南大門を閉門させた。
その後、続々と人が押し寄せているという知らせが二度あったきり、
夕刻から知らせが入らなくなった。
総指揮を取るはずの上護軍の姿もいつの間にか見えない。
「チョナ、于達赤隊長、チュンソクが参っております」
ドチが走るようにして取次ぐと、王がうなずく。
チュンソクは便殿の入り口でそれを見ていて、了解を得るまもなく、
王の前に踏みこんだ。
「お人払いを」
チュンソクが頭を下げてそう言うと、便殿にいた十数名の武臣が彼を睨みつける。
時間はお取りしません、とチュンソクが厳しい顔を上げる。
いつもの温厚な空気がかけらもない。
何を言うかこの若造、と年嵩の上臣が言いかけたのを遮って、チョナが手を振る。
「皆、出ていけ。すぐに呼び戻すゆえ」
断固とした声で言われて、武臣たちは渋々その場をあとにした。
話せ、と王が短く鋭く言い放った。
「南大門におります、アン・ジェから使いがまいりました。
本日昼過ぎより半刻ごとに皇宮に知らせを走らせ、また指示を仰いでいるが、
まったく返答がないと。
門前にはすでに一万を越す群衆が集まり、ほとんどは農具を持った耕人であるが、
残り半数は帯剣しており、私兵程度の戦力はありそうであると」
チュンソクの声が、一瞬かすれる。
話す目の中で瞳が左右に揺れた。
「これらの群衆がいっせいに京門、城壁に押し寄せた場合、
打ち破られぬようにするのは、至難の技であると」
そのようなことが、王は微かに震える声で、そう言った。
この堅牢な京門と城壁が元軍の兵でもないただの人群れに破られるということが
にわかには信じ難かった。
千人と聞いていた群衆が一万に膨れ上がっているというのも、その目で見たわけではなく。
「ありえなくはありませぬ、チョナ」
チュンソクが答える。
王は黙ってしばらく考えをまとめようとする。
「たしかに、元朝の長い圧政に、農民たちは飢え、恨みを蓄えておる。
彼らにとれば、我らも元朝の手下のように見えるであろうというのもわかっておる。
ただ、なぜこのように急にというのがわからぬ」
護軍アン・ジェもその点をいぶかしんでおります、伝令もうまく運んでおりません、
その点、至急手を打たねばなりませぬ、とチュンソクが言う。
「我の信義にもとる者が、手の内におる、というのか」
誰かはわかりませぬが、そうであるとしか、チュンソクが切羽詰った声でそう言った。
しばし于達赤隊を伝令に走らせます、と言ったそのとき、ドチの止める声を振り切って、
便殿にチェ尚宮が入ってきた。
その後ろにウンスを従えている。
「如何したか」
王の声が、荒れ狂うように大きい。
「チョナ、失礼を承知で参りました。けれど、どうしてもお耳に入れたいことが」
チェ尚宮がウンスを前に押し出す。
ウンスは王の目が釣り上がったように気が立っているのを見て、すでに腰が引けている。
チェ尚宮がその首を押さえて、耳元で、さ、早う、と強くうながす。
「チョナ、今押し寄せているのは、紅巾ですよね」
ウンスが尋ねると、なんとか気を鎮めた王が、そうだ、と声を低めて答える。
「わたし、理系だから本当に歴史のことは弱いの。よく覚えていないから、
確かなことは言えないんですけど」
いいから先ほど言ったことを申せ、とチェ尚宮がもじもじと動くウンスの
肩を両手で押さえて耳元で言う。
ウンスは于達赤隊に連れられて皇宮に戻り、非常時ゆえ、王妃の控える
場所として示された乾安殿に、王妃とともに避難していた。
その時に、ウンスは紅巾の乱について、昔にテスト勉強で読んだ内容を、
ようやく少しだけ思い出して、王妃とチェ尚宮にふと漏らしたのだ。
すると、チェ尚宮は、是が非でもチョナにお話しなければ、と言って、
ウンスを便殿まで引きずってきた。
「紅巾賊は何年だか忘れちゃったけど、何度か開京南大門を破って、
開京を占拠したことがあるはずなの。今度がそれかどうか、わたしにはまったく
わからないんだけど、でももしそうなら都から逃げるか、
そうでないなら、何か手を打たないといけない、と思い…ます」
自分ではずいぶんと肝が座ってきた、と思っていたウンスだが、
いざ本当の叛乱が目の前で起こると、恐ろしくて今にも泣き出しそうだった。
まて、と王がウンスの言葉をとどめる。開京を占拠だと? と王が繰り返す。
ウンスはチェ尚宮の背中に隠れて、こくこくとうなずいた。
「それは、誠か」
と王は言って、ウンスが答える前に、いや、よい、と言って首を振った。
天界から来たこの医仙が何やら不思議な力で先触れをするのを、
以前にも見たことがあった。
本人にも確かなことがわかるわけではないようなのだが、それでも、
肝心のことは、言い当てる。近頃は口をつぐんでいただけに、その言葉には
何やら信じなければならぬ何かがあった。
「城下の民がどうなるのか、ユ・ウンス、そなたは知っているか」
ウンスはほとんど泣きそうな顔で首をふった。
ごめんなさい、そういうことは一切わからないの、わたし入試用に年号とそこに
書いてあった一行だけしか覚えてなくて、と揉み手で答えるウンスを見て、
王は顔を上げた。
「チュンソク!」
は、とチュンソクが呼応する。
「一つ、城門をあけよ。城下に早急に府令を出し、城門内に逃げこめと指示せよ」
はいっ、と勢いよく返事をした後、チュンソクは、はい? と訪ね直した。
今聞いた内容が、今ひとつ頭に入らなかった。
民草を皇宮内に入れると、この王は言うのか。
「聞こえたか。京門はしばしの後破られる危険が大きい、そうなれば民は
紅巾に嬲り殺されること相違なく。よって皇宮にて保護いたす。
皇宮に集まれと府令いたせ。商売道具、食糧をかき集めて来いと告げよ」
篭城戦になるやもわからぬゆえ、と王が言うと、わかりました、
とチュンソクは頭を下げる。
それからもう一つ、と王が言葉を続ける。
チェ・ヨンを呼び戻せ、和州に早馬を向かわせよ、と王が言うと、
チュンソクが弾けるように顔を上げた。
アン・ジェから秘密裏に来た書状に記された、もう一つの知らせ。
「早馬すでに、テホグンのもとへ、向かっております」
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