「チュンソク…、災難だな…」
アン・ジェは、于達赤隊と龍虎軍、鷹揚軍での皇宮警護についての打ち合わせが
終わると、隊長のチュンソクに歩み寄った。
普段と変わりなく職務をこなしてはいるが、よく見ると目の下の隈が濃い。
「はい、まあ、はあ…」
なんと答えればいいものかと、チュンソクは言葉を濁したが、
最後のため息が何よりも雄弁だ。
いつものぴんと伸びた背筋が幾分丸くなり、肩が落ちている。
「どうだ?」
なんと聞いていいかわからずに、アン・ジェはそれだけ言った。
「ええ、まあ、つつがなく…と言っていいのかどうか…?」
何の抑揚もない声で、チュンソクはそう言って、額をこすった。
それから顔を上げて、眉間に皺を寄せて、アン・ジェの顔を見て。
「どうやら、先日ホグンがおっしゃってくれたように、
我らに対して怒っているわけではないのは、
この度のことでわかったような気がするのですが」
チュンソクは、それがまた悩みの種で、と続けた。
*
それが、とチュンソクは半分裏返ったような声で、アン・ジェに言った。
「何も、なさらないのです!」
はあ? とアン・ジェが、怪訝な声で問い返す。
何も、なさらないし、おっしゃらないのです、とチュンソクが沈んだ声で言う。
「ちょっと待て、おい、ウダルチテジャン、チュンソク。
俺の耳がおかしいのか。俺にはチェ・ヨンが何もしない、と聞こえたぞ」
なんでそれが、チェ・ヨンが怒っていることになるんだ、とアン・ジェは幾分憤慨した
それがですね、とチュンソクは低めた声で、アン・ジェに顔を近づけた。
「先日など、トクマンが鍛錬中にくだらない冗談を言って、
ふざけているちょうどまの悪いその時に、テホグンが通りかかられまして」
私はひどい叱責を受けるだろうと、声を待ち受けておりましたし、
トクマンなどはこっぴどく小突かれるか、尻でも蹴られるだろうと思っておりましたが、
とチュンソクは顔をこわばらせる。
そりゃあ、そうだろうな、とアン・ジェがうなずく。
「テホグンはつかつかと、トクマンの前まで速歩で歩み寄られまして、
じっとトクマンを睨みつけましたが、ふいっと顔を背けられました」
それで、とアン・ジェはうながす。
「それだけです」
はあ? とアン・ジェが怪訝な顔を作る。
「それだけなんです。テホグンは何も言わず、そのまま立ち去ってしまわれたのです」
俺の方も一蹩をくれただけで、とチュンソクは頭を抱える。
声をかけるにも値しない、とはどれほどのお怒りでしょうかっ! とチュンソクが言うと、
アン・ジェしばらく考え込んだ後、ははあ、と顔を上げた。
「何か、思い当たられますか」
チュンソクがすがるように言うと、アン・ジェは微かに笑いそうになって、
すぐに口を引き結んだ。
「チュンソク」
はいっ、とチュンソクが背筋を伸ばす。
「おまえ、あれだ。うん、チェ・ヨンは怒ってはいないぞ、これは。
はは、そうか。まあ理由(わけ)はな、あいつの体面もあるだろうしな。
うん、チュンソク、テホグンはお怒りじゃないぞ、その点は安心しろ」
そうか、はは、そうか、と言いながらアン・ジェはほのかに愉快そうに、
チュンソクを置いてその場を立ち去ってしまった。
「え?」
その場にはぽかんとしたチュンソクが、取り残されていた。
*
「ね、ウダルチに戻ったって、ほんとなの?」
夕餉を取りながら、急に問われて、チェ・ヨンは飲んでいた汁でむせかけた。
箸を持った方の手で胸を軽く叩きながら顔をあげると、
ウンスがチェ・ヨンの顔を覗きこんでいる。
「テマンが言いましたか」
そう言うと、ウンスはこくこくと何度かうなずいて、またチェ・ヨンを
じっと見る。その目に浮かんでいるのがどうやら好奇心らしいと気づいて、
チェ・ヨンはふうと息を吐いて、答えた。
「はい、ウダルチの隊員となりました」
テマンはどこまで話したのだろう、とウンスの顔を見るが、読み取れない。
怒るでも、悲しむでもなく、ただ興味深々といった様子で目を輝かせている。
「じゃあ、またテジャンになるの?」
いえ、と口走って、チェ・ヨンはどう話せばよいのか、少し口ごもった。
箸と椀を置いて、握った拳を口に当てる。
一隊員として戻った、というのもやはりあまり格好のいいものではなく。
はて、と動きが止まったところで、ウンスがもどかしげに口を開いた。
「ねえねえ、大護軍の職を退く、ってこのあいだ、話したよね?」
はい、とチェ・ヨンが短く答える。
「なぜかっていうのは話を聞いたから、わかってるから、もういいの。
その後どうするか、はこれから考える、って言ってたけど、
わたしはテホグンを辞めるっていうのは、軍職から退くっていう意味だと
思ってたんだけど、違う?」
違いません、そのつもりでした、とチェ・ヨンがいらう。
「テマンはチョナに拝謁したあと、そうなったって言ってたけど、
そこで何かあったの? チョナに脅されたとか?」
とんでもない不敬を、まるで面白いことのように尋ねてくるウンスに
チェ・ヨンは思わず顔を上げて顔をしかめたが、思い返してみると、
あながち外れてもいない、と言葉を失って、口を開けたまましばらく
動きが止まってしまった。
それでも、気を取り直して、なんとか言葉を続ける。
「チョナは…脅すなどいたしません。ただ、この乱の折、人手不足で」
そう答えると、ウンスは微かに眉間に皺を寄せた。
「ね、ちょっと、真面目な話なんだけど」
急にウンスが居住まいを正して、膳に箸を置いた。
チェ・ヨンはなにごとか、とひたとウンスの顔を見つめる。
「わたし、働きに出ようか?」
は、とあまりの意外な言葉に、小さな声がチェ・ヨンの口から出た。
それから急いで、なぜですか、と尋ねる。
「だってテホグンってすごくいいお給料…禄をもらえてたんでしょう?
一年に銀六斤、あと軍田の収穫も割り当てがあるって聞いたわ。
それがなくなっちゃうと、生活苦しいのかなって。
わたし、そこらへん、よくわからないじゃない?
高麗の経済ってまだいまいち理解できなくって」
あ、でもだんだんわかってくると思うのよ、ここの診療所じゃ
あまり稼ぎにならないから、明日チョナとお会いする用事があるの、
ついでに典医寺での働き口がないか、相談してみようかな。
べらべらとしゃべり続ける内容に、あっけにとられていたチェ・ヨンは
手の平をウンスに向けて、なんとかそれを遮った。
「それではあなたは、俺が日銭を稼ぐためにウダルチに入ったと、
そう思っておられるのですか」
大護軍ではいられないけど、でもお金はいるでしょ、
今までの職歴を活かして、舞い戻ったのかなあ、ってそう思ったんだけど、
ずばり、当たってるでしょ? とウンスは少し得意げに言った。
「あなたは何か、思い違いをしておられる」
チェ・ヨンは苦笑いを浮かべて、ウンスに言った。
「俺とあなたが一生食うていくくらいの蓄えは、チェ家の蔵に十分あります」
そうチェ・ヨンが静かに言うと、ウンスは一瞬黙って、それから
ええっ、と大声を出した。
その驚きぶりが大仰で、チェ・ヨンは思わず笑ってしまった。
「そうなの?」
そうです、とチェ・ヨンは深々とうなずいた。
「そうなんだ…?」
ウンスは質実な屋敷の部屋を見回して、信じられないようにそう言った。
「じゃあ、なんで…あ、そっか、人手が足りないのか…」
ウンスは、先ほどチェ・ヨンが言ったことを繰り返して、でも、
あまり納得のいく答えではなかったようで、考え込んでいる。
「ゆえに、あなたは心配しなくてよいのです」
チェ・ヨンは穏やかにそう言うと、さ、冷めてしまう、と箸を取った。
ウンスはわかったわ、とうなずいて、また箸を取って食べはじめたが、
その目はまた自分も椀を持ち上げたチェ・ヨンの様子を、
うかがっていた。
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