「この高麗の国を守護するものとして、おのれの力不足で投げ出せる、
その程度の覚悟で務められると思っていた。それが甘い」
チェ・ヨンはそう言って、息をつめた。
手で首筋を撫でながら、王は、そうか、
と同意ともそうでないともわからぬ声で、投げ出すように軽く言う。
チェ・ヨンは王の意をはかりかねて、下げていた視線をふいと上げた。
「俺はまだ、やれることがありますか」
ふうむ、と王は相槌を打つ。
答えはしない。
チェ・ヨンはしばらく黙って王のいらえを待っていたが、
何も言わずに、あるかないかの笑いを口元に張り付かせて
黙っている王に痺れを切らしたように、はあっ、と荒いため息を
ついて、視線を宙にさまよわせた。
「どうなんです」
次に王を見た目は、探るようではなく、迫るようにまっすぐだった。
突然、王が立ち上がる。
チェ・ヨンがその動きを目で追うと、王は今度はにっこりと笑って、
「ウダルチの兵士チェ・ヨン、世の護衛をせよ」
と言って、歩き始めた。
*
「いかがでしょうか、こちらは」
と王は尋ねる。
文官武官が追いすがるのをすべて散らしてチェ・ヨンのみを
従えて王が向かったのは、禁軍兵営に面した迎賓館の一角の、
小部屋だった。
元、明からの使者の侍従などのための控えめな広さの部屋だ。
扉の前の巨体の二人の衛兵の間を通って中に入ると、
節約をむねとして華美さを減じた皇宮に比べると、
部屋の内装は幾分華やかだった。
「不自由だな」
王が部屋に歩み入っても、無反応だった徳興君が、
その後ろのヨンを見ると、毛氈の上の座椅子に寝そべるようにもたれたまま、
自由に歩き回ることもできぬ、
と気だるげに布の巻かれた先のない手を持ち上げてみせた。
ヨンは王の前にこそ立たなかったものの、その横に控えて、
油断なく徳興君に目を据えている。
しかし徳興君が、左の口角を引きつったように上げるほかには、
特にだらりと身体の力を抜いているのを見て、
わずかに剣にかけている手の緊張を緩める。
不自由だとも、不自由以外になにがあるのだ私に、と王の叔父は
酒やけした声でつぶやくように言った。
「何をやっても、うまくいかぬ。
どう知恵を絞っても、しまいにはこうして、もとの囚われの身だ」
なに一つ変えられぬ、
そう言って、徳興君はゆっくりと瞼を閉じてしまった。
考えてみれば、元からこの高麗へと遣わされていたあの半年程のみが、
叔父にとって息を潜めぬ暮らしのできたわずかな期間だったのだ、
と王は思い、いつものように、言い訳にはならぬが、と無言で付け加えた。
ヨンは、双城総管府で手を斬って落として以来、
この男と会ってはいなかった。
冬をまたいで春の始まろうというほどの間に見ぬうちに、
徳興君は最後に見た時にはわずかに残っていた目の光を失って、
妙に青黒いような顔色で、ひどく酒臭い。
「なに一つ変えられぬ、ですか」
王がそうつぶやくと、チェ・ヨンと徳興君が同時に、
王の顔を見つめる。
友にでも話しかけるように王はほがらかな口調で言う。
「叔父上、あなたはご自分では覚えていらっしゃらないが、
一度このチェ・ヨンをお殺しになった。ご存知ですか」
徳興君は、何を、と半笑いを浮かべながら王を見る。
聞いてはおられぬか、と王は真面目な顔で言う。
徳興君は知らぬのをつくろうように、
にやにやとうすら笑いを浮かべていたが、
しばらくすると「では、あのユ・ウンスは」とつぶやくと、
その顔から微笑が消えて、みるみるうちに理解の色が広がった。
「それでは…、しかし、どうやって…」
かすかに震える声で、徳興君は王に問うと言うよりは、
自問自答するかのようにひとりごちる。
「ユ・ウンスがこのチェ・ヨンに知らせねば、
あの席で手を落とされる前に、この」
王はチェ・ヨンを指でさしながら、徳興君の前の椅子に腰掛ける。
チェ・ヨンもまたそれに合わせて場所を変えた。
「チェ・ヨンは毒に倒されていたのですよ」
それは、まことか、とほとんど聞き取れぬ声で徳興君が
言うのにかぶせるように、王は愉快そうに続ける。
「世には到底成し遂げられぬことです。このチェ・ヨンを殺すなど」
王が心底感嘆したように言うと、チェ・ヨンは後ろで
苦虫を噛み潰したような顔をして、横を向いた。
徳興君は、自嘲の笑みを頬に張り付かせたまま、
顔を強ばらせた。
「あなたは、変えられぬ、とおっしゃった。
しかし、ユ・ウンスは変えたのです」
あの女がたまたま運がよかった、それだけのこと、
と吐き捨てるように徳興君が言うと、王は首をかしげた。
「果たしてそうでしょうか。
叔父上は、多くのものを捨てても、このチェ・ヨンの命を取ろうとする
執念をお持ちでした。そのお気持ちが、この者の力を上回った。
それは本当のことなのですよ」
王は首を回して、チェ・ヨンを見て、また顔を戻す。
「その叔父上のご覚悟を、ユ・ウンスの覚悟が上回った。
そういうことではないでしょうか」
ふん、と徳興君が苛立って鼻を鳴らす。
慰めにもなりませぬか、と王は静かに言う。
「食えもせぬ、幻の食いもののようなものだ。
飲めぬ水が地平に揺らめいていたとて、喉の渇きは癒せぬ」
そうでしょうか、あなたは成したのに、と王は目をうつむかせた。
しばらくの間、叔父と甥の間に沈黙が降りる。
こうして向かい合うと、血のつながりはさほど濃くもないのに、
その顔にはどこかしら似通ったところがあった。
「慶昌君が存命で在位なさっておれば、
世も叔父上のようになったかもしれませぬな」
しかし世はそうならなかった、
と王は徳興君に言うのではなく、独り言のようにそう言った。
世は叔父上のようにはならぬ、と王はおのれに言い聞かせる
ように繰り返した。
チェ・ヨンはじっと、王の後ろ姿に目を据えている。
徳興君は王の話に心動かされた様子もなく、
怨嗟と哀れっぽさの入り混じった顔で
王の後ろのチェ・ヨンにひたと目を据えている。
どうでもよい話をしました、と王が顔を上げて、徳興君に言う。
「叔父上、あなたは北京にお行きください。
そして二度と高麗の土を踏むことのないように。
次にお戻りになったときは、命を取らざるをえません」
殺さないのか、と徳興君がさして嬉しくもなさそうな、
それでいて、命意地汚い嬉しさをにじませてそう言った。
どうしてかいつも、あなたを殺す気にはなれぬのですよ、
と王は苦笑いを浮かべてそう言った。
「叔父上、昔玉座より大事なものがおありか、
と尋ねたこと、覚えていらっしゃいますか」
そんなことがあったか、と徳興君が言う。
「そのとき叔父上は、自分が一番大事だとおっしゃいました。
ですから、その一番大事なものを守るため、
二度と高麗の土を踏まないでいただきたい」
王はひどく柔らかい口調でそう言った。
しかし、徳興君からしか見えないその目は、
ぎらついて、ただならぬ決意に満ちていた。
「あなたがこの約定を破られたときには、
あなたの一番大事なお命をちょうだいすることになる」
世は一番大事な、高麗を守らねばならぬゆえ、
王はそう言って徳興君をじっと見つめた。
「チョナ、あなたは甘い」
牢から離れ、長和殿に向かい歩き始めるとすぐに
チェ・ヨンがそう言った。あいつを生かしておくとは、と続ける。
ほう、まったく礼儀知らずの臣下だな、たかが于達赤の兵卒が、
と王が面白そうに言う。
チェ・ヨンは立ち止まると、ならば言い直します、
と言いながら同じように立ち止まった王に向き直る。
「チョナ、恐れながら申し上げます」
王は後ろで身体の後ろに手を回し、
顔だけをチェ・ヨンに向けて、見上げている。
「あなたは甘っちょろい」
王はチェ・ヨンをじっと見つめていたが、我慢できずに吹き出した。
拳を口に当てて、くくく、と笑っている王を、
チェ・ヨンはくすりともせずに、真面目な顔で見つめている。
世はいろいろな者に様々なことを言われてきたが、
面と向かってそのように言われたのはさすがに初めてであるぞ、
と王は笑いながらチェ・ヨンに言った。
「ですから」
俺がお守りいたします、とチェ・ヨンはきっぱりと言った。
王は笑うのをやめて、チェ・ヨンの顔を挑むように見た。
「双城総管府で叔父上を斬って捨てることもできぬ男がか」
と王が言うと、チェ・ヨンは、はあ、と大きくため息をつく。
それが俺の甘さです、とチェ・ヨンは言った。
治りはせぬ、と付け加える。
見もせぬことで平静を失い、
女一人のことで抜け殻になるこの性根、
治らぬとしても、周りの力を借りればなんとか
あなた一人はお守りできるでしょう。
チェ・ヨンはまっすぐに王を見つめてそう言った。
「覚悟ができたか大護軍チェ・ヨン、よき心がけであるぞ」
王はそう言うと、うむ、と一人うなずいて、歩き出し、
チェ・ヨンもまた並んで歩き出した。
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