かなり長い時間、ウンスは黙りこんでいた。
少しうつむいて、頭の中に浮かんくるさまざまな言葉をどう連ねようか、
考えてこんでいる様子を、チェ・ヨンは辛抱強く見守っていた。
一度、わずかに口が動きかけて、また止まる。
チェ・ヨンはゆっくりとウンスにもたれかかり、
自分の頭をウンスの肩に乗せた。
「……怒らない?」
そうウンスが言った瞬間に、チェ・ヨンの眉間に皺が寄った。
ふーっ、と長い息がチェ・ヨンの口から漏れる。
「いいから」
怒るとも怒らないとも約束せず、チェ・ヨンはうながす。
ウンスは自分の肩に乗ったチェ・ヨンの頭に指をさしこみ、
髪をいじりながら、その頭に顔を寄せて、もう一度言う。
「ねえ……絶対に、怒らない?」
すると、チェ・ヨンはすいと身体を起こし、腕を組んで空を睨み、
もう一息吐いてから、怒らぬ、と低くもごもごと言った。
口を開かないウンスにチェ・ヨンが目をやると、かすかに顔をしかめて
疑うようなまなざしで見ている。
チェ・ヨンは苦笑いを浮かべると、脚と脚の間に頭を垂らし、
それから顔をねじってウンスを見上げるように見た。
「声を荒らげたりはせぬと、約束する」
怒ったことなど滅多になかろう、とため息をつきながら付け加えると、
ウンスは、はあ? と語尾を上げて頭を振る。
「ちょっと前になるけど、ほら、遠征から戻ったときに、
テマンの…覚えてる? 去年トクマンをかくまったときだって」
指を折りながらそういうと、チェ・ヨンはもう一度顔を手で覆って動きを止めた。
「テマンのあれか」
と手越しにくぐもった声で言う。
そうよ、あなた怒るとすっごい怖いんだもの! とウンスが言うと、
くくく、と脱力したように肩を揺らして顔をから手を外した。
「本当にあなたという人といると、なぜこうなる。
よくもまあ、俺を怒らせるようなことを次々と…」
そう言いながら、ちらとウンスを見ると、
ウンスはわたしのせいじゃないわ、と肩をすくめる。
チェ・ヨンは、わかりました怒らないと約束しますから、
と言いながら手でうながす。
ウンスは、覚悟を決めて口を開いた。
✽
「それで、どういうおつもりですか、チョナ」
人払いの済んだ便殿の最奥で、玉座にもたれかかるように座る王に向かって、
チェ・ヨンの言葉は詰め寄るような響きがあった。
「と、言うと」
王はそう言ってから、すぐそばに立ったチェ・ヨンの目つきを見てすぐ、
あの件か、と気まずそうに目をそらして呟いた。
ウンスから伝わったか、と尋ねられて、チェ・ヨンは深くうなずく。
「この際、お世継ぎが必要であるということは置いておきましょう」
低く抑えられてはいるが、荒ぶりを秘めた声に、
王は驚いたようにチェ・ヨンに顔を戻した。
高麗の太子の問題について責められると、王は思っていた。
「あれだけ、……あれだけ願って得た御子を、
ひとに託そうというのはどういうわけか、
あなたのお口から直にお聞きしたい」
そうチェ・ヨンが言うと、王は軽くうつむき、顔の前で掌を合わせた。
ふむ、そうきたか、と呟いて、合わさった掌越しに、チェ・ヨンを
ちら見する。
チェ・ヨン、と呼びかけた声は、わずかに不機嫌な気を孕んでいる。
久しぶりに名を呼ばれて、今度はチェ・ヨンが驚きを顔に走らせた。
余はな、子を手放す気などない、王の口から思いがけない言葉が出て、
チェ・ヨンが眉をかすかに動かした。
「覚えているか」
何のことかわからずに、チェ・ヨンは王の顔をじっと覗きこんだ。
「どうしたのです」
王が何も言わぬので、不躾にも腕をつかむ。
「言ってください」
顔を上げた王の顔色が青白いのに、チェ・ヨンは、はっと息を呑む。
「王妃がさらわれたときのことを」
あの時のことを思い返すと今でも、ほら、
と言って袖をめくり差し出した王の腕が粟立っている。
十年も前のことだというのにな、と王は呆れたように腕を撫ぜてから
袖で覆いなおした。
「王妃とその子の命を思うて、余はすべてを投げ打ってあの者に哀願した。
一言一句覚えておる。思い出したくないが」
王位を差し出した、ぽつりと呟いて、王は自嘲で唇を歪める。
チェ・ヨンはわずかに俯き、奥歯を噛みながら顔を上げた。
「余はあの時より歳を経て、少しばかり利口になった。
手ひどいことも、できるようになった。そうは思わぬか」
問いかけるように言われて、チェ・ヨンはこくりとうなずく。
王は指で眉根を揉むと、そのまま動きを止める。
「しかし、しかしだ。余はまた同じことをするぞ」
王はそばに立ったチェ・ヨンを見上げるように顔を上向けた。
「王妃と子に何かあれば、余はまた同じことをしてしまう」
我が子はどれほど付け狙われるであろうな、と口の半分だけが苦く笑う。
「余がそうであったように、我が子も遠い地で人質となることを求められよう。
元国には抗えよう。しかしだ、明国は求めぬか。どうだ。拒めばどうなる」
自問自答のように、言葉を紡ぐ王を、チェ・ヨンは不動のまま見ていた。
「王のつとめとは何だ。国を永らえることであると決め込んでおった。
そのためにはすべてを駒にせねばならぬと」
できるわけがなかろう、王は目の当たりを手のひらで覆うと、
長いため息をついた。
そして、目を隠したまま、言葉を続けた。
「だからな、チェ・ヨンよ。
余は卑怯な手を使うことにしようと思う。
我が子を隠し、ひとの手で育てさせ、しかも、妙齢になり、
その時にこの国がウンスの言うほど悪しきありさまでなければ、
子が我が世継ぎであると明かそうと思う」
王は顔から手をどけた。
血走った目が、チェ・ヨンの目とひたと合わさる。
「預け先の人物は、余が保証する」
信頼に足る人物だ、とチェ・ヨンとしかと目を合わせたまま、王は続ける。
「余の子を我が子のように愛しみ、命をかけて守るだろう。
またその者は、手放した親である余を憎むようには仕向けまい。
成人した後に、余がその者から子を取り戻すとしても」
王はそこまで言って、黙り込んだ。
二人の間に、しばし沈黙が横たわる。
チェ・ヨンは低い声で言った。
「それで、よいかと」
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