「で、こいつ、あ、いや、こ、こ、この子の名前はなんていうんですか?」
テマンが身を乗り出して、恐る恐る赤ん坊のほっぺたをちょんとつつく。
赤ん坊が目をつむったまま口を小さく動かすと、テマンの顔がぱっと明るくなり、俺がやったんだぞというような自慢げな表情でウンスを見た。
ウンスは小さくうなずきながら、微笑み返し、それから口を開く。
「あのね。名まえはまだつけていないの」
えっ、とウダルチ達がいっせいに顔をウンスに向ける。
特にテマンは眉根を寄せて、妙に悲しげな顔になり、赤ん坊の顔をふたたび覗きこむ。
「てっ、天界では赤ん坊に名まえをおつけにならないのですか?」
すぐに意識を取り戻して、床にあぐらをかいたまま、顔をあおがれているチュンソクが、見当違いのことを言う。
ウンスは少し笑って、首を振った。
「テジャン…もうテホグンって呼んだ方がいいのかな。あの人と一緒に考えたかったの」
今度は皆いっせいにヨンの顔を見る。
ヨンは兵達に見られていることにも気づかないほど、じっとウンスの目を見つめている。
さすがに、三ヶ月目を越えたらかわいそうだから、つけちゃおうかなって思ってたけど、まだ戻れるチャンスがあるってわかってたから、とウンスが答えると、テマンがさらに尋ねる。
「じゃ、じゃあいつもはなんて呼んでるんですか?」
ベイビーよ、天界の言葉で、赤ちゃんって意味なの。
ウンスがそう言うと、兵たちは、ベイビー、ベイビー? と不思議な響きの言葉を口の中で転がしてみて、嬉しそうに赤ん坊に呼びかけてみたりする。
「こちらに来てください、話があります」
ヨンだけが表情を変えずにウンスに歩み寄った。
何かを思うように、ウンスの腕にそっと手をかけると、立ち上がらせる。
もう少し医仙と話していたい兵たちは、名残惜しそうな顔を見せたが、ウンスが小声で、また後でね、と言うと、人だかりを割って道を作り、ヨンとウンスを通した。
兵営の詰所の最奥に位置する大護軍のための住居は、板塀に申しわけ程度の屋根をつけただけの掘っ立て小屋だ。
ヨンはすきま風の入るその仮小屋を見守し顔を曇らせたが、まだしも進軍した当初の天幕の寝床でなくてよかったと、無理に自分を納得させる。
「あとで壁に毛布を貼らせますから、もう少しは暖かくなります」
そう言いながら、ヨンは用意しておいた毛織を広げて、ウンスと赤ん坊をいちどきにくるむ。
そんなに寒くないわ、と肩をすくめながらウンスは笑ったが、ヨンが敷物を重ねたり、うとうととしている赤子に日が当たらぬよう窓に覆いをしたりと落ち着きなく動き回るのを止めはしなかった。
「たぶん、これで」
寝起きするための狭い囲いのような部屋でやることはすぐに尽き、ヨンはもう一度部屋を見回すと、ようやくウンスの横に腰を下ろした。
それからばねで弾かれたように立ち上がり、ウンスに何か欲しいものはないか、と尋ねる。
ウンスが十分よ、と答えると、そうか、そうか…と呟きながら今度こそ座った。
しばらくの間、並んで座った二人の間にしじまが降りる。
ヨンは手の平を口の前で合わせて数秒考えこんだあと、手を下ろして口を開いた。
「再びお会いしたら、どれだけ話すことがあるだろうか、お聞きすることがあるだろう、と思っておりました」
しかし、とヨンは前を向いたまま少しだけ笑う。
あまりに驚いて、吹っ飛んでしまいました、と言ってまた黙る。
ウンスは赤子を無意識で揺らしながら、ヨンの言葉を待った。
「しかしまずは、やるべきことをやらねば」
ヨンはうなずき微笑みながら、ウンスへと顔を向ける。
そしてそのまま、じっとウンスに見入ったまま動きを止める。
話をしなくては、と思うのに、目を離すことができなかった。
どれだけ見ても、きっとまだ足りぬ、しばらくはそう思う日々が年月が続くのだろうとヨンにはわかる。
ウンスは見つめられて、こんなに嬉しいのになぜすぐに視界がぼやけてくるんだろう、と思いながらかすんでいくヨンに笑いかける。
ヨンはすぐに身体を回して、ウンスの方に向き直ると、手を伸ばしてウンスの頬を親指でやさしくぬぐった。そしてその指で、赤ん坊の頬に落ちた涙もぬぐう。
そのまま赤ん坊の寝顔を、怖いようにじっと見つめたあとに、顔を上げた。
それから、ウンスに向かって、ヨンの両手が伸びる。
「赤子を抱いてもかまいませんか」
ヨンが生真面目に顔をこわばらせて、そう言った。
いっそ不安げなその様子を見て、ウンスはヨンに身体を寄せ、赤ん坊を差し出す。
「遠慮なんかしないでいいの。あなたの子なんだから」
そう言われると、ヨンは余計に張り詰めたような表情になって、まっすぐに赤ん坊を見つめながら腕に抱きとる。
ウンスが立ち上がって腕の形をなおしてやると、はじめはこわばっていた肩と腕がじょじょに柔らかさを取り戻し赤ん坊のからだに沿いはじめる。
この四年の戦で鋼のように強く絞られたその腕の中で、赤ん坊ははかなく、小さかった。
「こちらにお呼びしたのは、この後のことをすぐにも決めて差配せねばと思ったからです。あなただけならまだしも、赤子がいるゆえ」
ヨンは、穴が開くほど赤ん坊を見つめている。
すぐにもと言いながら、また黙る。
「だというのに…それより先に、決めねばならぬことができてしまいました」
赤ん坊から一筋も目を離すことなく、じっと抱いたまま、ヨンが言う。
ウンスは、なにを? とヨンの顔を横から覗きこむように尋ねる。
ヨンの口角が抑えようもなく上がり、それから照れたような笑い声が口から漏れる。
「名まえです」
名まえを授けねば、先ほどそう話しておられた、そう言ってヨンはふいに顔を上げる。
その目がわずかに湿っているのに気づいて、今度はもう指でぬぐうのでは間に合わないほど次から次へとウンスの目から涙がこぼれる。
「うん、うん」
ウンスは古ぼけた着物の袖口で、おおっぴらに涙を拭きながら、何度も何度もうなずいてみせる。
「お泣きになるな。泣くのは赤子の仕事です」
ヨンが片手を伸ばして、今度は手のひらで頬をぬぐうと、ウンスはまた、うん、とうなずいて泣き笑いの顔を見せた。
なんとしましょう、とヨンが呟く。
「何かお考えになってはいなかったのですか?」
ヨンが尋ねると、ウンスは両手の甲で最後の涙をこすりぬぐいながら、首をかしげる。
「わざと考えないようにしてたから…。一人で考えちゃいけないかなって。ベイビーを産んで二ヶ月したら、計算ではもう一度天門が開く可能性があるってわかってたから、それに賭けてみようと思ってたの。だからそれまでは、できるだけ考えないようにって」
あなただって急に言われても名まえなんか浮かばないわよね、急がずに考えて――とウンスが話す唇を、ヨンがそっと手を伸ばして指で押さえる。
いつもとは違う心地に気づいたのか、赤子が目を覚ましていた。
見えているか見えていないか、ヨンを見ている。
初めて見る赤子の瞳に、ヨンは息を止めて見入っている。
「ミョンソンが」
ヨンが明星(ミョンソン)がまなこの中に、と息のように口走る。
一度目には見たものにおどろいたような響きがあった。
「ミョンソン――」
二度目に言ったそれはすでに呼びかけだった。
ウンスがヨンの指をゆっくりと自分で手で横にずらして、静かに問う。
「それって…?」
ウンスのささやきを受けて、正気に戻ったかのように、ヨンはさっと手を引いて、頭をふってみせる。
「いや、風変わりすぎる。この赤子の瞳があまりにも、その」
輝いていた? とウンスが助け舟を出した。
ヨンは、ああ、と自分でも戸惑うように笑う。
それから、遠くを見るような目で、ぽつりぽつりとしゃべりはじめる。
「毎夜、雲のない日は空を見ておりました。
どこにいても星は見える。
千年の昔でも、一度訪れた天界でも、星は変わらぬ。
ゆえに」
あなたもきっと見るはずだと、ひとことひとことを思い出すようにヨンが言いながら顔を上げる。
「夜番の折には、眠らずに考えておりました。
あなたが、どこで眠っているか、ちゃんと食べているか、嫌な目にあってはいないか。
考えても俺は助けにいくこともできず、ただひたすらに待つことしかできない」
ウンスを見る目に憂いの雲がかかり、口元からひとたび笑みが消える。
「そうした暗い夜にも明け方になると、明星があらわれます。
ひときわ明るく、朝のおとずれを前触れする――」
目の前のウンスに焦点が戻り、ヨンは口をつぐむ。
ウンスが先ほど泣いたことも忘れたように、ヨンの膝をぎゅっとつかんだ。
身を乗り出して、ヨンに顔を近づけて、しゃべりだす。
「わたしもよ。わたしも、星を見てた。
きっとあなたも、それからアッパもオンマも同じものを見てるはずって。
ね、きっと私たち同じ星を見てたわね」
ウンスは、いったん言葉を切って少し考えこむ。
明星、明星と口の中で、何度も確かめる。
「ここだと変わっているかしら? 現代じゃふつうの名まえだけど。
いいじゃない変わってても、テホグンが天人に産ませた子よ」
ウンスがおどけてそう言うと、いや、でも、その、とヨンは言葉に詰まり、赤ん坊とウンスの顔を代わる代わる見る。
「決めたっ! この子の名前はミョンソンよ」
ぱちんと手をあわせて、ウンスは目を輝かせて立ち上がった。
いい名まえをもらったわね、あなた幸せものよ、とウンスはヨンの抱く赤ん坊にむかって話しかける。
ヨンは思いがけずも自分がつけた名まえに戸惑いながら、腕の中の赤ん坊を見下ろすと、その小さな我が子が不思議そうに彼を見つめていた。