「イムジャ、またこのような…」
ヨンは眉をひそめて小声でつぶやくと、馬を寄せて身を乗り出し、荷馬車の穀物袋によりかかり、布にくるまれた赤ん坊を胸に、うとうとと目をつむっているウンスの乱れてソッパジの見えているチマのすそをなおしてやる。
色褪せた紺色の上下はひどく粗末なものだったが、夫を持つ女の着るもので、ヨンはそれを来ているウンスが目に入るたびに、そこはかとなく緩む口元をそのたびにぐっと締め直していた。
ヨンもまた、商人のような薄れた藍の着物を緩く身にまとっていた。
チュンソクはつぎのあちこちにあったった茶の上下に笠をかぶり、のんびりと馬に揺られている。
荷馬車を御するために前に座ったテマンは生成りの衣をまとって、農夫がどこかに荷を運んでいるとしか見えなかった。
開京からは遠ざかる、海へと向かう細道を、四人は安穏として進んでいた。
馬の並足が心地よいのか、チュンソクがふああと大きなあくびをして、はっと気づいてごまかすように口を狭め、ヨンに話しかける。
「だいぶ、雲が出てきたようですが」
ヨンはそう言われて、顔を空に向ける。
次の宿までもちそうにないな、とつぶやいて、具合のいい木を見つけたら天幕を張るぞ、とチュンソクとテマンに向かって言った。
二人は、間延びした声で、あーい、と答える。
「ど、どうですかねえ、ど、どっちかの方には行ったと思いますか?」
テマンがたずなで緩く馬の背を打ちながら、ヨンにたずねる。
ヨンは軽くうなずいて、テマンを見る。
「こっちには襲撃がない。追っ手がかかっている気配もない」
どちらかが相手をしているだろうよ、そのための囮だ、とヨンが言うと、チュンソクもうなずく。
「いやあ、まさか二手もおとりをだすとは思いませんでした。トクマンのやつ、自分たちがおとりのおとりだとは思ってないだろうなあ」
チュンソクがそう言うと、テマンが少し怒ったように言う。
「い、いくらなんでもトクマンがテジャンじゃ、相手も騙されませんよ。
背格好が似てたって、あんなのどこからどう見てもテジャンじゃない」
それを聞いて、チュンソクとヨンが声をあげて笑う。
ウンスはその笑い声で、目をこすりながら身体を起こした。
「なあに、おもしろい話?」
ヨンがすぐに馬を寄せる。
たいした話ではありません、と言ったヨンの顔が兵営にいたときよりよほど明るくて、ウンスは思わず顔がほころぶ。
「あれ?」
頬にぽつりとした感触があって、ウンスがふいと顔を上に向ける。
間隔をあけて、ヨンが、次のテマンが、最後にチュンソクが上を向き、四人で空を向く。
「降ってきましたねえ」
とチュンソクは言って、馬から身を乗り出し、荷馬車に積んである天幕布を横から引きずりだして、ウンスの近くへと寄せる。
まだたいして濡れもしませんが広げて頭の上に、と言うと、ウンスはすぐに巻いてある織物の端をほどいて、一枚の布にしようとするが、赤ん坊を抱き座ったまましようとすると、意外に重さがあってうまくいかない。
立ち上がろうとして、荷馬車の揺れに尻餅をついたのを見て、ヨンが慌てて近づくと、
「チュホンを頼む」
とたずなをチュンソクに投げ、あぶみからそのまま荷台に飛びうつる。
それを見て、ウンスは安心したように座り直し、ヨンが天幕のはしを広げて自分の上に広げるのを待った。
ヨンはウンスにそれをかぶせると、赤ん坊を抱いてふさがったその手を見て、顔を上げる。
「俺はこっちで雨よけになるが、いいか」
テマンが振り返り、よさそうな木を探しながら進みます、と声を投げる。
「馬は引きますのでお任せを」
と雨を気遣いウンスとヨンを見ていたチュンソクが、ほっとしたように応えた。
ヨンはうなずいて、ウンスの横に身を寄せて座りこむと、腕を少し上げて自分とウンスにかかる天幕を支える。
大丈夫よ、頭に乗っけてればいいんだから、とウンスが言うので、少し力を抜いて二人の顔にかかるくらいに下ろすと、荷馬車の後ろに続くわだちとチュホンの馬体が視界になった。
「おいっ、プジャン」
テマンが前から呼ぶと、チュンソクとチュホンが、荷馬車の前へと消える。
何か前で話している声がするが、特に大事ではないようで、ヨンとウンスは黙ったまま遠ざかっていく景色を眺めていた。
馬の足音と車輪の回る音がしばらく続いた後、ヨンが口を開く。
「俺がいたらぬばかりに、めんどうをかけます」
なにが、とウンスが首をかしげる。
本気でわからないようで、ヨンの顔を覗きこむ。
ヨンは、ウンスの丸くなった目に、思わず少し笑いながら答えた。
「このような荷馬車で旅をするはめになりました」
とヨンが言うと、ウンスはなーんだ、と言いながら肩でヨンをとんと押した。
ぶつかられて、ヨンは何を、というように顔を向ける。
「あいかわらず、なんでも背負いこむのね」
と顔を横にしてヨンに微笑みかける。
赤みが目立たぬよう結った髪からほつれた数本が、頬にかかる。
第一もともとは私のせいじゃないの、とウンスがふざけたように眉をしかめて言うと、でも、とヨンはあらがってなにかを言おうとするが、ウンスは指でそっとヨンの口元を押さえる。
ね、私、いますごく楽しいのよ、と指を離しながらそう言うと、ヨンはなぜというように目に力を入れる。
「箱馬車じゃ息がつまるわ。たくさんの護衛もそう」
たくさんの兵に囲まれて、そりゃ立派なお屋敷だったし、手伝いもたくさんいて身体は休まったけど、でもね、と一度言葉を切って、そのために戻ってきたわけじゃないわ、とウンスが言う。
見て、とウンスは顔を戻して上げ、ゆっくりと遠ざかっていく樹々や道や土埃に顔を向ける。
ほら見て、とうながされて、ヨンもウンスから顔を戻す。
「こんなふうに、のびのびとするの、戻ってから初めてじゃない?」
ミョンソンも寝ててくれてるし、と言うとヨンはウンスの腕の中のミョンソンに目を落とし、それから顔を上げてまたウンスを見た。
「護衛なんかたくさんいなくたって、あなたがいてくれれば安心できるの。
だからいまはすごくリラックスしてる…とても気持ちよくくつろいでるって意味よ」
それから、ウンスはほんの少し口を尖らせる。
「同じ屋敷で寝泊りはしてたけど、会えるのは夜だけ」
だから、私、こうしてずっとあなたと一緒にいられて、いますごく楽しいの、とウンスが微笑むと、ヨンはあらがう言葉がなくなって、ただウンスの目を見つめる。
天幕を支える手がほんの少し引き下ろされて、二人の口元までがゆるやかに隠れた。
ヨンは身体をそっとウンスに向けて傾かせ、ひっそりと止まる。
幕の中に生まれたわずかな暗がりの中で二人の唇が重なって、馬車が石に乗り上げてガタンと揺れても離れようとはしなかった。
ヨンはしばらくの間、おとなしく口づけるだけで抑えていた。
が、長く幕をつかんでいた手の片方だけを外して、ウンスの肩の後ろの穀物袋に置き、口づけが深くなるよう位置を変えたころ。
しばらくの前から馬の足音も車輪の音も消えているのに気づいた。
「どうした」
なにごとか。
剣呑な気配はなかったので気づくのが遅れたと舌打つような気持ちで、ヨンは鋭くたずねる。
荷馬車の前方から、決まり悪げな声が答える。
「あ、あの、具合のよい樹木が見つかりましたゆえ、馬車を停めさせました」
チュンソクがそう答えると、
「お、俺はそのまま次にい、いい木が見つかるまで、すすす進もうってちゃんと言いました!」
とテマンが声をかぶせる。
しかし、雨も徐々に強くなってくるし、次にまたよい場所が見つかるとは限らぬだろうが、とチュンソクがテマンに言うのが聞こえると、ヨンは、深々とため息をつき、身体を起こす。
「チュンソク、正しい判断だ。急いで天幕を張るぞ」
立ち上がってそう告げた後、ヨンはもう一度誰にも聞かれぬよう嘆息した。