「いいから、船影が見えるか、さもなければよほど剣呑な兆候でもなければ、岬にいろ」
いいな、とヨンが念を押す。
イェ、とチュンソクはわずかに残念さをにじませた声で答えると、くるりときびすを返して、小走りにまた来た道を戻っていった。
チュンソクが来たのはもう二度目で、一度目は藪に野犬かと思ったら狸が出たと報告に来て、今度は何かに驚いた海鳥の群れが夜の空で騒いだと知らせに来た。
そうしたことはいちいち報告に来なくていいんだと、ヨンが告げると、少し肩を落とす。
とにかく何か仕事をせずにはいられない男だと、ヨンは呆れながらも感心する。
なんとはなしに見送って、岬へと登る茂みにその姿が隠れると、ヨンはまた海へと向き直って、浜小屋の前に無造作に置かれた流木に腰かける。
暗い海は凪いでいて、ごくたまに海鳥の鳴き声や風が松林を揺らす音が聞こえるだけだった。
――はあ。
チェ・ヨンはもう何度目かになるため息を静かに吐き出した。
あたりの静けさとは裏腹に、ヨンはおのれの中に時折立つさざ波に胸をざわめかす。
開京までは何事もなく帰れそうだというところまでこぎつけたが、今度はその後のことが、頭の中に次々に浮かぶ。
ヨンはそれを振り払うように、目をつむり頭を降った。
砂を踏む足音が近づいてきて、ヨンはうんざりしたようにがくりと首を前に倒す。
あまりに静かで安穏とした漁村の様子に、足音を消す気配りも疎かになっている。
足音は慌てた様子もなく、大きな問題が起きたとは到底思えない。
今度もまた魚でも跳ねたか、と振り返りもせずに言い放つ。
「あっちに行け」
わかったわ、と答えた声にヨンは跳ねるように立ち上がった。
振り返ると、半分後ろを向きかけて足を止めたウンスが、伏し目がちに立っている。
違う、チュンソクだと、と早口に告げると、ウンスは意味がわからないまま立ち止まる。
「いや、さっきまでチュンソクが、いて…」
ゆっくりと顔を上げたウンスと目が会うと、それ以上の言葉が止まる。
前で腕を組んで、なんとなく気まずげに笑ってみせるウンスに、大股で近寄ってその前に立つ。
「どうしました、何かありましたか? ミョンソンは」
矢継ぎ早に尋ねると、ウンスが肩を少し持ち上げて、上目遣いで答える。
「別に何も」
ただ、ミョンソンが泣き止まなくて、困ってたらテマンがおんぶで連れ出してくれて、一人は危ないからあなたのところに行けって、と少し口を尖らせながら早口で言う。
言いながら、徐々にウンスの顔がうつむいていき、最後の言葉を言うときには、ヨンにはその横顔にかかった前髪と耳しか見えないほど下を向く。
「少しの間、面倒を見てくれるって…」
そう普通の口調で言いながら、細い月明かりに照らされた耳朶が暗がりでもわかるほど赤く染まっているのにヨンは気づいた。
辺りの唯一の音だった波音が、突然遠ざかる。
その理由が、自分の中で突然早まった血流が起こす耳鳴りだと知って、ヨンは一瞬にして喉がからからに乾く。
ゆっくりと確実に手を伸ばすと、すくい上げるようにウンスの頬をはさんで、そっと上向ける。
夜の空気にさらされているのに、その頬は熱くて、ヨンは指から何かが這い上がってくるのを感じた。
夜の中で少しだけ明るく潤んで光る、焦がしたような茶の瞳があらわれる。
近づいていく自覚もなく、ヨンは静かに溺れるよう唇を重ねる。
打ち寄せる波の音が三度繰り返されて、一度それが離れると、
「ああ…」
ヨンがため息と感嘆ともつかぬ声を、思わずもらした。
この感触を、これまではいつも途切れてしまうこの感触が、あまりにも。
天にものぼる、という言葉が思い浮かぶ。
「なあに?」
ウンスは照れくささに、少し笑いを含んだ声で尋ねる。
ヨンは、呆然としたまましばらくの間、ウンスの目を、そして唇を見て、息を吐く。
「なにも…」
そう言いながら口元をほころばせて、ヨンは今度は顔を傾けて、深く唇を重ねた。
そのままウンスの背中に手を回すと、紐がほとんど解けていたチョゴリがゆるく背中をすべって、ウンスの首元がはだけた。
赤子の世話をしていて、結び忘れたのか、それとも解いてきたのか、と考えながら、と唇から首筋へ、そして鎖骨の窪みに鼻先を擦りつける。
解いてきたのならなおいいのに、とチョゴリをつかんだ手を引きずるように下ろすと、いつのまにか力が抜けたように横に垂れたウンスの腕から抜きさる。
残ったのはくすんだ白のごわついた胸帯だけで、むき出しになった肩の白さと、四年前と比べるとわずかに丸みを帯びた曲線に、ヨンの目が大きく見開かれた。
ごくりと、喉仏が動く。
胸元にかかる息が、急激に熱さと速さを増して、ウンスは小さく身体を震わせた。
ヨンは上衣をそのまま砂地に落とすと、背中の肌に手を這わせた。
ウンスが自由になった腕を、おずおずとヨンの首に回すと、ヨンはそのままぐいと抱き上げて、ほとんど蹴るように浜小屋の傾いた扉を開けた。
振り返りもせずに、後ろ足で蹴り閉めると、小屋の中を見回してウンスを立たせる。
ウンスはこの後どうすればよいのか見当をつけられず、紅潮した顔のまま緊張気味に立っている。
破れ小屋のあちらこちらから、ほんのわずかな夜明かりがさして、漁の道具の所在を知らせていた。
ヨンはまっすぐにウンスと目を合わせたまま、自らのニルマギ(着物)から腕を抜くと、網の上に放り投げる。
「くそっ、こんな場所で」
ヨンはウンスをやすやすと抱えて、着物を敷いても硬いそこに横たえながら、小さく悪態をつく。
ここでいいかと聞くことも忘れて、横たえた胸帯の紐をもどかしそうに両手で解く。
その邪魔な布きれを、握りつぶすようにつかんで剥ぎ取ると、ウンスははっと胸を手で覆った。
「なりません」
宝物を隠された子どものように、ヨンは反射でウンスの両手首をつかむと、思わずウンスの顔の両側に押し留める。
痛いほどに腕にをつかんだまま、ヨンは白い身体と豊かになった胸に目を奪われて、まばたきもできずに凝視する。
ヨンの荒っぽい振る舞いに、ウンスが思いのほか強くあらがって身体をひねると、ヨンは目をしばたたかせ戸惑ったように、急激に手の力を弱めた。
「嫌ですか?」
珍しいほどの弱気な声に、ウンスは首を振りながらまたそっと胸元を覆う。
嫌なら来ないし、と張り詰めた声でウンスは短く答える。
「でも、あの、ちょっとっていうかすご…く…緊張してる…かも」
ヨンを見上げて、それでも引きつったような笑顔を作ってみせるウンスに、ようやくヨンは、二人の逢瀬がたった一度であった事実を念頭に登らせる。
長く長く息を吐き、力を抜いてウンスの肩に額を押し付ける。
「頭に、血が…のぼりまして」
言いわけを口にしながら、今度はそっと両手の中にウンスの身体を閉じこめるように抱きしめる。
会ったころにはうねっていた髪が、今はさらさらとヨンの頬を撫でる。
薄いパジ越しにも、ヨンがひどく苦労して自分を抑えていることが、ウンスにもわかる。
ずっとこうしたかった、という切実な呟きに、ウンスの身体から強張りが少しずつ溶けた。
おずおずとウンスの手が上がって、ヨンの頭を撫でる。
「あのね、遠慮はしないでいいからね」
でも大事にして、とウンスがヨンの髪にそっと口づける。
ヨンは辛抱強くこらえていたが、それでもウンスの肌の誘いに負けて、肩から少しずつ唇を下にずらして、胸の柔らかななぞえを唇で触れるか触れないでたどる。
「約束いたします」
ヨンはそう答えるとようやく、四年ぶりに、我を忘れた。
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