筆記



カテゴリ:緑いづる【シンイ二次】( 22 )


【シンイ二次】緑いずる20 ―ヨンと乳飲み子―


横たわって自分の腕を枕にして、ソッパジを履いてゆるく胸帯を結んだウンスが、薄く目を開ける。
ヨンの姿を見ると、身体を起こし、髪がゆるやかに肩から胸へと落ちる。

「テマンとチュンソクが、届けに参りましたよ」

微笑みながら膝をつき差し出すと、ウンスは目を開いて、手を差し伸べる。
抱きとりながら、涙の跡のある顔をしげしげと見て、指でそれをぬぐいながら、

「あらあら、ずいぶんあの二人を困らせたんじゃないの?」

と話しかける。
腹がすいたようです、とヨンが告げると、よく頑張ったわね、とウンスは赤ん坊の頬に顔を押し付けた。

「えーと…」

ヨンはチョゴリをそっと広げると、ウンスの肩にかける。
そのまま横から、泣きながら濡れたおしめを替えてもらっている赤ん坊を覗きこんでいたが、ウンスが少し困ったように声を上げると、はっと背を向けようとした。

「えっと、そうじゃなくて」

ウンスが慌てて言葉を足すと、怪訝な顔で振り返る。
そうじゃなくて、と繰り返した後、ウンスは少しの間言葉を切ってから言う。

「見てみる? すごく、かわいいから」

ヨンはかすかに目を見開いて動きを止めたが、しばらくしてこくこくと小さく二度うなずいた。
ウンスは胸帯を押し下げると、お腹すいたね、とつぶやきながら抱き寄せる。
含んだ口が何か食べているかのように動く赤ん坊を、ヨンは魅入られたように動きも息も止めて、眺める。
その口元が抑えられずに、笑みの形を作る。
赤ん坊が、手を伸ばして乳房にその木の葉のような手のひらを当てると、おお、とつぶやくように感嘆する。

「ね、かわいいでしょ? 見せてあげたかったんだけど、なんかね、ちょっと恥ずかしくて」

ウンスが赤ん坊を驚かせないよう小声で横にいるヨンに話しかけると、ヨンは前に垂れて赤ん坊にかかりそうなウンスの髪をそっとかきあげて、耳にかける。
それから、動いている赤ん坊の頬に指でそっと触れる。
赤ん坊が気にしないとわかると、何度かつついて、ウンスにたしなめられた。
飲み終えると、ウンスは赤ん坊をヨンに手渡す。

ヨンは縦に抱くと、頭を自分の肩にもたれかからせて、背中をごく弱く何度も撫ぜる。
その間に、ウンスが胸帯を直し、チョゴリもチマもさっと着直すさまを、ヨンは名残惜しげに横目で見る。

「もっと強くとんとん、って叩いていいのに」

ヨンのおずおずとしたやり方に、笑いながらウンスが言うと、ヨンは断固として首を振る。

「強くして身体に障りでもあってはいけませぬ。
こうして根気強くさすっておれば、いずれ出ます」

真剣にそう主張するヨンに、ウンスはふふと笑って、それ以上は言わない。
あぐらをかいてゆっくりと手を動かすヨンを眺めながら、ウンスのまぶたはすぐに降りてくる。
自分の着物の上に寝そべり、肘で頭をささえて微笑みながら目が細くなっているウンスを見て、ヨンも微笑んだ。

「さあ、もう休んで」

そう言われるとウンスは、うん、と小さな声で答えながら、自分の手のひらを重ねてそこに頬を乗せると、身体の力を抜いて目をつむる。
すぐに寝息が聞こえてきて、ヨンはほっと息を吐く。

「ああ、おまえも眠たいな」

ヨンの大きな肩に頭を乗せて、ミョンソンは浅い眠りを漂いはじめる。
自分の身体をウンスの脇に横たえて、ヨンは二人の間に赤ん坊をそっと寝かせる。
着物の端でくるむと、赤ん坊もまた寝息をたてはじめる。

ヨンは赤ん坊とウンスを包むように腕を二人にそっとかけると、自らも目を閉じた。




「うーん、いい天気ね」

小屋の前に出たウンスは、ひとつ大きくのびをして、まだ浅い夜明けの潮風に目を細める。
昨日見たときには黒々と見えた海が、今朝はもう深い藍に輝いている。

「ハナ、トゥ、セッ、ネッ、ハナ、トゥ、セッ、ネッ」

ウンスは、硬い網とヨンの着物で作った寝床でこわばった身体をほぐそうと、浜辺で体操をはじめる。
腕を動かして胸をそらしたり、足を屈伸させて、気持ちがよさそうに伸ばす。
身体を横に倒して脇を伸ばしていると、背後で音がした。

「何をしているのですか」

身体をひねって振り返ると、ヨンが少し眉をしかめて、体操をするウンスを見ている。
その胸にはまた、赤ん坊が抱かれていて、ヨンの手が背中をさすっている。

「体操してるの、身体が強ばっちゃって。あなたもしたら?」

ごめんこうむります、と言いながらヨンは笑って、ウンスの横にならぶ。
ほら、いい眺めじゃない、気持ちいいわよ、というウンスの横で、ヨンもまた海を眺める、とその目が急に真剣なまざなしを帯びる。
と、同時に。

「テジャーン!」

後ろの山側の道から、テマンの叫ぶ声が聞こえた。
二人が振り向くと、転がるように草を分けて走り下りてくるテマンの姿が見える。

「船が、き、きました!」

砂を蹴立てて二人に近づきながら、テマンが言う。
ウンスが振り返ると、ヨンはすでに海を向いていて、手を額にあてて遠くを見ている。
岬を回って、沖に小さく船影がちらついている。

「た、たぶん、あれだからテジャンに知らせろって、プ、プジャンが」

ああ俺もいま気づいた、とヨンが言うと、テマンはよほどの速さで走ってきたのだろう、両膝に手をついて、はあはあと息を整える。
沖合の船から、きらりきらりと何かの反射か、光がちらつくのを見て、ヨンはウンスに赤ん坊を渡すと、小屋の中に入り、すぐに着物の紐を結びながら出てきた。
遅れることわずかで、チュンソクが雑木をかき分けて、姿をあらわす。

「合図がありました」

ちょうど小屋から出て、身支度を整えているヨンに、チュンソクが告げる。
間違いないあれだ、とヨンがつぶやくと、チュンソクもこくりとうなずいた。
ヨンがウンスに顔を向ける。

「船が到着したようです。浜の端から小舟で渡ります」

ウンスはやや緊張した面持ちで、生真面目にうなずいてみせる。

「大丈夫です、風も追い風ですし、外海にも出ませんから揺れもたいしたことはありません」

チュンソクが力強くそう言うと、ウンスはまだわずか強張りを残したまま、それでも微笑む。

「ミョンソンは俺がおぶいます。船に乗り移るときに危ないから」

そう言って、テマンがウンスの手から赤ん坊をそっと抱きとると、慣れた様子でひょいと背負う。
気づけば、ヨンとチュンソクがそれぞれに荷物をすでに抱えている。

「馬はどうするの?」

ウンスがふと気づいて、ヨンの顔を覗きこむ。
ヨンはゆったりと笑んで、安心させるように説明する。

「チュホンは船に乗せます。一頭ならなんとか乗せる場所も確保できる。
残りの馬は、この村の者に与えます。我らのことを目をつぶるかわりに」

ウンスはこくり、とヨンの目を見ながら首を縦にふる。
ヨンはウンスの目を見つめたまま、ゆっくりとうなずきかえすと、顔をあげた。

「出発しよう」

一行は船に向かって歩きはじめた。




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by kkkaaat | 2016-05-01 20:04 | 緑いづる【シンイ二次】 | Comments(18)

【シンイ二次】緑いづる19 ―チュンソクとテマン、勤しむ―


「さぶっ」

晩春の暖かさも、岬の突端では吹き飛ばされてしまうようで、チュンソクはぶるりと身体を震わせた。
わずかに飛沫の混じった空気が、余計に身体を冷やしている。

「来ねえなあ」

夜目はきく方だが、遥か遠くの黒い水平線まで船影はない。
船戦の経験もあるチュンソクは、ここ数日は東からの風が強く、船の到着は早くて明日の夜半だろうとおおよその見当をつける。
そうなると、こんな場所にいるだけ損だが、それでも張番を立たせぬことはできないので、まあ納得して海を眺め続ける。

先ほど、海の中をかすかに光る何かの群れが浮かび上がり、静かにまた沈んでいった。
テホグンに知らせたくてウズウズするのだが、二度目の報告に言ったときに、来なくてよいと言われたのを思い出して、ぐっと堪える。
もう二刻ほどもここにいて、細い三日月が雲に隠れたり見えたりしながら、だいぶ位置を変えた。

ぐっとせり出してくるあくびを、誰も見ていないのに、かみつぶす。
一言で言えば、退屈なのだ。

「まあ、あれだ。やはり、報告にまいろう」

チュンソクは誰に聞かせるでもなく言いながら立ち上がる。
うん、あれだ、一定の間隔でなにごともないことをお知らせするのも、一つの任務である、うん。
自分に言い訳するために、声を出してつぶやきながら、チュンソクは意味もなく、身体から埃を払った。

「よしっ」

自身を納得させるように言うと、チュンソクは足取りも軽く、岬を降りる道とも言えぬほどの踏み分けをかけるように、歩きはじめた。
できるだけ音を立てぬように降りて、雑木を抜けると浜に出る。
先ほどまで、ヨンが座っていた流木にその姿はなく、チュンソクはあたりを見回した。
ふと何かに気づいて、足音も息も殺してかけよる。

(これはたしか…!)

ウンスが先ほどまで羽織っていたチョゴリではないか、と拾い上げた手が震える。
はっと姿勢を低くして、あたりを油断なく見回すが、特に人影も争った形跡もない。
まずは浜小屋の中を確かめようと、一歩踏み出そうとしたところに、後ろから駆け寄る足音がした。

「テマナ、これを見――」

言いかけたところでいきなり口をふさがれ、引きずられるように浜の端まで連れていかれる。
チュンソクは敵に見られてでもいるのかと、きょろきょろとあたりを見るが、特に気配も感じられない。
が、テマンの顔は真剣そのものだ。

「おい、どういうことなんだ、説明してくれ。これを見ろ、すぐにテホグンにご報告せねば――」

ようやく手を外されて、早口でテマンに言い募ると、しっ、と言われてそっと背中を向けられる。
背負われて眠っているミョンソンを見て、チュンソクは声をぐっと低めて、テマンに顔を近づける。

「夫人に何かあったのか!?」

顔色を変えたチュンソクに、テマンが急いで顔を振る。

「ち、違う。何にもない! だ、大丈夫だ、テジャンもユ夫人も、あの、浜小屋の中にいる」

はあ? とチュンソクの口から声が出る。
テマンはもう一度、静かにしろ、ミョンソンが起きちまう、と繰り返す。

「二人が小屋の中にいるなら、なんだっておまえ、俺のことをこんなところまで」

とそこまで言って、チュンソクの動きがはたと止まった。
テマンがじーっと見つめるうちに、チュンソクの目が少しだけ大きく見開かれる。
口が声を出さずにゆっくりと開いて、手のひらにもう一方の手のこぶしを、ぽん、とゆっくり打ち付ける。

テマンがにこりと笑って、うんうんうんうん、とうなずく。
それに合わせるように、チュンソクもゆっくりと二度うなずく。
チュンソクの顔が、驚きから納得、そして、我慢できないように笑んで、二人してくくくとわけもなく笑う。
そして急にチュンソクは気がついて、ぐしゃぐしゃに握り締めていたウンスのチョゴリを慌てて開くと、砂をはらって申しわけ程度にたたみはじめた。





「あ」

テマンが小さな声をあげる。

「どうした?」

岬の突端で見張っていたチュンソクは、風が当たらぬよう、後ろの林の中で膝に赤ん坊を寝かせたテマンを振り返る。
半分居眠りをしていたテマンは目をこすりながら、起きちまった、と残念そうにつぶやいて、寝ろ、寝ろ、な、とささやきながら立ち上がるが、ふえふえとぐずる声が、チュンソクにまで届いてくる。

「どれ貸してみろ」

俺も父親だからな、寝かしつけくらいはお手のものだ、と言いながら受け取ると、よしよし、と言いながら小さく揺らす。
しばらくの間、チュンソクが奮闘してみるものの、ぐずりはだんだんと大きくなり、半分泣き声になってきた。

「な、なあ、プジャン。これ……乳をほしがってるんじゃ、な、ないか?」

口をぱくつかせ、手元に何度も指を寄せるしぐさに、テマンがチュンソクの顔を下から覗きこむ。
チュンソクは、眉をしかめる。

「俺もそう思っていたところだ」

しばらく、二人はじっと固まったまま、赤ん坊の泣く姿をじーっと見つめる。
どうする、とチュンソクが、低い深刻そうな声でテマンに問いかける。
どうしようって、とテマンが、口を尖らせると、

「い、行くしかないだろ」

とつぶやく。
だよなあ、とチュンソクが心底残念そうに言うと、テマンもはあとため息をつく。

「肩を落とすな、テマン」

おまえはよくやった、先ほどからもう二刻ほど引き伸ばした、いかなテホグンでも、とまで言ってチュンソクは言いすぎたことに気づいて、ううん、と咳払いでごまかす。

「まあ、あれだ。あまりお嬢さんを泣かせるのは、まずいだろう。あたって砕けろ、だ」

砕けるのは嫌だなあ、とテマンはつぶやきながら、赤ん坊をもう一度おぶう。
そうやって背負っても、今度は泣き止まないので、これはいよいよ仕方がないと、二人は顔を見合わせて、坂道を下りはじめた。





「プ、プジャン、たのみます」

テマンは泣き声が大きくなってきた赤ん坊を背中から下ろすと、チュンソクに向かって差し出す。

「ななな何を! おまえがお嬢さんを預かったんだから、おまえが行ってこい」

チュンソクは首と両手をぶんぶんと振りながら、それでもできるだけ声をひそめて言い返す。
お、おれがですか、とテマンは抱きかかえた赤ん坊と静まっている小屋とを交互に見て、首をかしげたり、あたりを助けでも求めるように見回したり、少々うろたえている。
が、これ以上泣かすわけにもいくまいと、意を決して小屋の扉へと一歩踏み出したところで。

「テジャン!」
「テホグン!」

内から扉が音もなく開き、白いソゴッ(肌着)だけをまとったヨンが、ゆったりとした様子で外に出てくる。
ほんのかすかに、小屋の中を気にするように視線が後ろに流れるが、そっと後ろでに閉じて、二人に歩み寄る。

「ミョンソンが乳を欲しがったか」

口を開きかけたテマンが言う前に、ヨンは低く落ち着いた声で、そう言った。
そのくつろぎながらも研ぎ澄まされた様子に、チュンソクはほうっと思わず息をのむ。
すぐに手を伸ばしてテマンから赤ん坊を受け取ると、腕にかかえて、もう本格的に泣き出しているのを柔らかい眼差しで見つめる。

「待たせて、すまなかったな」

小さくつぶやくように詫びると、赤ん坊の顔を見つめたまま命じる。

「チュンソク、このまま岬の見張りに戻れ」

チュンソクがイェ、と短く答える。

「テマナ、上にある荷物をこっちに運べ。運んだら、チュンソクに合流し、交互に仮寝を取れ」

わかりましたっ、とテマンも歯切れよく返事をする。
チュンソクとテマンは、ちらりちらりと互いに視線をやりとりして、思わず微笑んでしまう顔をひきしめながら、小さくうなずきあう。

「では日が昇りましたら、一度ご報告に参ります」

それと、とチュンソクが手に持ったチョゴリを遠慮がちに差し出すと、ヨンは一瞬何だろうという顔つきをしたが、ああとすぐに思い当たって、くっと微かに笑いながら受け取った。
じゃあ俺はすぐに荷物を、とテマンが言い、二人がいっせいに駆け出そうとする。

ヨンは待て、とそれをとどめた。
二人は、踵を返しかけた姿勢のままで、動きを止める。

「二人とも……礼をいう」

ヨンが腕に赤ん坊を抱いたまま、顔を上げて、小さくうなずき、そう言った。
二人は、抑えられないようににかっと笑うと、頭を下げ、そのままそれぞれの持ち場へと走り出した。




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by kkkaaat | 2016-04-25 19:35 | 緑いづる【シンイ二次】 | Comments(28)

【シンイ二次】緑いづる18 ―二度目―


「いいから、船影が見えるか、さもなければよほど剣呑な兆候でもなければ、岬にいろ」

いいな、とヨンが念を押す。
イェ、とチュンソクはわずかに残念さをにじませた声で答えると、くるりときびすを返して、小走りにまた来た道を戻っていった。

チュンソクが来たのはもう二度目で、一度目は藪に野犬かと思ったら狸が出たと報告に来て、今度は何かに驚いた海鳥の群れが夜の空で騒いだと知らせに来た。
そうしたことはいちいち報告に来なくていいんだと、ヨンが告げると、少し肩を落とす。
とにかく何か仕事をせずにはいられない男だと、ヨンは呆れながらも感心する。

なんとはなしに見送って、岬へと登る茂みにその姿が隠れると、ヨンはまた海へと向き直って、浜小屋の前に無造作に置かれた流木に腰かける。
暗い海は凪いでいて、ごくたまに海鳥の鳴き声や風が松林を揺らす音が聞こえるだけだった。

――はあ。

チェ・ヨンはもう何度目かになるため息を静かに吐き出した。
あたりの静けさとは裏腹に、ヨンはおのれの中に時折立つさざ波に胸をざわめかす。
開京までは何事もなく帰れそうだというところまでこぎつけたが、今度はその後のことが、頭の中に次々に浮かぶ。
ヨンはそれを振り払うように、目をつむり頭を降った。

砂を踏む足音が近づいてきて、ヨンはうんざりしたようにがくりと首を前に倒す。
あまりに静かで安穏とした漁村の様子に、足音を消す気配りも疎かになっている。
足音は慌てた様子もなく、大きな問題が起きたとは到底思えない。

今度もまた魚でも跳ねたか、と振り返りもせずに言い放つ。

「あっちに行け」

わかったわ、と答えた声にヨンは跳ねるように立ち上がった。
振り返ると、半分後ろを向きかけて足を止めたウンスが、伏し目がちに立っている。
違う、チュンソクだと、と早口に告げると、ウンスは意味がわからないまま立ち止まる。

「いや、さっきまでチュンソクが、いて…」

ゆっくりと顔を上げたウンスと目が会うと、それ以上の言葉が止まる。
前で腕を組んで、なんとなく気まずげに笑ってみせるウンスに、大股で近寄ってその前に立つ。

「どうしました、何かありましたか? ミョンソンは」

矢継ぎ早に尋ねると、ウンスが肩を少し持ち上げて、上目遣いで答える。

「別に何も」

ただ、ミョンソンが泣き止まなくて、困ってたらテマンがおんぶで連れ出してくれて、一人は危ないからあなたのところに行けって、と少し口を尖らせながら早口で言う。
言いながら、徐々にウンスの顔がうつむいていき、最後の言葉を言うときには、ヨンにはその横顔にかかった前髪と耳しか見えないほど下を向く。

「少しの間、面倒を見てくれるって…」

そう普通の口調で言いながら、細い月明かりに照らされた耳朶が暗がりでもわかるほど赤く染まっているのにヨンは気づいた。

辺りの唯一の音だった波音が、突然遠ざかる。
その理由が、自分の中で突然早まった血流が起こす耳鳴りだと知って、ヨンは一瞬にして喉がからからに乾く。
ゆっくりと確実に手を伸ばすと、すくい上げるようにウンスの頬をはさんで、そっと上向ける。
夜の空気にさらされているのに、その頬は熱くて、ヨンは指から何かが這い上がってくるのを感じた。
夜の中で少しだけ明るく潤んで光る、焦がしたような茶の瞳があらわれる。
近づいていく自覚もなく、ヨンは静かに溺れるよう唇を重ねる。

打ち寄せる波の音が三度繰り返されて、一度それが離れると、

「ああ…」

ヨンがため息と感嘆ともつかぬ声を、思わずもらした。
この感触を、これまではいつも途切れてしまうこの感触が、あまりにも。
天にものぼる、という言葉が思い浮かぶ。

「なあに?」

ウンスは照れくささに、少し笑いを含んだ声で尋ねる。
ヨンは、呆然としたまましばらくの間、ウンスの目を、そして唇を見て、息を吐く。

「なにも…」

そう言いながら口元をほころばせて、ヨンは今度は顔を傾けて、深く唇を重ねた。



そのままウンスの背中に手を回すと、紐がほとんど解けていたチョゴリがゆるく背中をすべって、ウンスの首元がはだけた。
赤子の世話をしていて、結び忘れたのか、それとも解いてきたのか、と考えながら、と唇から首筋へ、そして鎖骨の窪みに鼻先を擦りつける。
解いてきたのならなおいいのに、とチョゴリをつかんだ手を引きずるように下ろすと、いつのまにか力が抜けたように横に垂れたウンスの腕から抜きさる。

残ったのはくすんだ白のごわついた胸帯だけで、むき出しになった肩の白さと、四年前と比べるとわずかに丸みを帯びた曲線に、ヨンの目が大きく見開かれた。
ごくりと、喉仏が動く。
胸元にかかる息が、急激に熱さと速さを増して、ウンスは小さく身体を震わせた。

ヨンは上衣をそのまま砂地に落とすと、背中の肌に手を這わせた。
ウンスが自由になった腕を、おずおずとヨンの首に回すと、ヨンはそのままぐいと抱き上げて、ほとんど蹴るように浜小屋の傾いた扉を開けた。

振り返りもせずに、後ろ足で蹴り閉めると、小屋の中を見回してウンスを立たせる。
ウンスはこの後どうすればよいのか見当をつけられず、紅潮した顔のまま緊張気味に立っている。

破れ小屋のあちらこちらから、ほんのわずかな夜明かりがさして、漁の道具の所在を知らせていた。
ヨンはまっすぐにウンスと目を合わせたまま、自らのニルマギ(着物)から腕を抜くと、網の上に放り投げる。

「くそっ、こんな場所で」

ヨンはウンスをやすやすと抱えて、着物を敷いても硬いそこに横たえながら、小さく悪態をつく。
ここでいいかと聞くことも忘れて、横たえた胸帯の紐をもどかしそうに両手で解く。
その邪魔な布きれを、握りつぶすようにつかんで剥ぎ取ると、ウンスははっと胸を手で覆った。

「なりません」

宝物を隠された子どものように、ヨンは反射でウンスの両手首をつかむと、思わずウンスの顔の両側に押し留める。
痛いほどに腕にをつかんだまま、ヨンは白い身体と豊かになった胸に目を奪われて、まばたきもできずに凝視する。
ヨンの荒っぽい振る舞いに、ウンスが思いのほか強くあらがって身体をひねると、ヨンは目をしばたたかせ戸惑ったように、急激に手の力を弱めた。

「嫌ですか?」

珍しいほどの弱気な声に、ウンスは首を振りながらまたそっと胸元を覆う。
嫌なら来ないし、と張り詰めた声でウンスは短く答える。

「でも、あの、ちょっとっていうかすご…く…緊張してる…かも」

ヨンを見上げて、それでも引きつったような笑顔を作ってみせるウンスに、ようやくヨンは、二人の逢瀬がたった一度であった事実を念頭に登らせる。
長く長く息を吐き、力を抜いてウンスの肩に額を押し付ける。

「頭に、血が…のぼりまして」

言いわけを口にしながら、今度はそっと両手の中にウンスの身体を閉じこめるように抱きしめる。
会ったころにはうねっていた髪が、今はさらさらとヨンの頬を撫でる。
薄いパジ越しにも、ヨンがひどく苦労して自分を抑えていることが、ウンスにもわかる。
ずっとこうしたかった、という切実な呟きに、ウンスの身体から強張りが少しずつ溶けた。
おずおずとウンスの手が上がって、ヨンの頭を撫でる。

「あのね、遠慮はしないでいいからね」

でも大事にして、とウンスがヨンの髪にそっと口づける。
ヨンは辛抱強くこらえていたが、それでもウンスの肌の誘いに負けて、肩から少しずつ唇を下にずらして、胸の柔らかななぞえを唇で触れるか触れないでたどる。

「約束いたします」

ヨンはそう答えるとようやく、四年ぶりに、我を忘れた。




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by kkkaaat | 2016-04-20 23:25 | 緑いづる【シンイ二次】 | Comments(24)

【シンイ二次】緑いづる17 ―テマンの子守―


「ね、どうしたの。何が嫌なの」

ウンスは、自分自身が半べそをかきながら、小屋の中をうろうろと歩き回っていた。
腕には先ほどから泣き止まないミョンソンがいる。
乳もよく飲み、お腹は膨れ、ゲップもし、濡れて気持ちの悪いところもなく、熱もない。
ただうまく眠りに入れないのか、抱いても揺らしても、ぐずぐずと泣き続ける。

ウンスはもう一度、お腹を触診したり、口の中を見てみたり、手足を確かめたり、赤ん坊の体の具合を見てみるが、どこにも悪いとこはない。
こういうふうに、赤ん坊がだらだらと泣き続けることがあるというのは、お産を手伝ってくれた村の女たちが教えてくれてはいたし、これまでにも経験してきた。
しかし、今のようにできれば静かに身を潜めたい時に、こうも長く泣かれると、自分もわっと泣きたいような気持ちにおそわれる。

「疲れちゃったかな、大変だよね、寝たいんだよね」

分かれ道からまる一日、先を急ぎたいと、あまり休みも取らず、この小さな集落まで来た。
五、六の家族が集まっただけの漁村で、そこの港とも言えぬほどの小さな入江で、船軍の迎えの船と落ち合う手はずになっていると言う。

――アン・ジェに船軍から漁船に偽装した船を一艘出すよう、手配を頼んである。この三日のうちには船影が見える手はずだ。

そうヨンが説明したのはこの漁村に向かう道すがらで、着いたのはもう暮れた後だった。
ウンスと赤ん坊が過ごせる場所を見繕うと、

「この漁村の人間は、高麗側に利する者ですから、ここは安全ですが、念のため、テマンとともに隠れていてください。」

と言って、ヨンは入江を見渡す浜子屋に、チュンソクは岬の突端で見張りをと、すぐに出て行った。
ウンスは、テマンとともに、浜から少しだけ登った、今は使われていない寺の建物の中に身を潜める。

火を焚くこともできない廃屋は、暗く心細く、それがまた赤ん坊に伝わって泣くのじゃないか、とウンスは自らを叱咤する。

「自分が泣いてちゃだめでしょう。このくらい、大丈夫、大丈夫」

そう言ってぐいと目元をぬぐう。
少し、子守歌でも歌ってみようかと口を開きかけたところで、辺りをぐるりと見て回ってきたテマンが、戸口に立って手招きをする。

「な、泣きやみませんか?」

ウンスが歩み寄り、口をへの字にしてうなずくと、テマンはその腕に抱かれた赤ん坊を覗きこむ。

「こんなこと、めったにないのよ」

それがまるで自分の責任でもあるように、ウンスはテマンに言いわけする。
テマンは、ちょっと貸してみてください、と言うと、少し涙をためたウンスからひょいと赤ん坊を受け取る。
そして、するりと懐から帯紐を出すと、慣れた様子で背中におぶってしまった。
首がすわったばかりなので、ウンスは手を少し伸ばしてみたり、赤ん坊の顔を覗きこんでみたり、テマンの回りをうろうろするが、当の赤ん坊は、急にぶんと背中に担ぎ上げられたのに驚いて泣き止み、きょろきょろと辺りを見回している。

「テジャンの、う、上衣を一つ、かしてください。あまり厚くないやつ、お願いします」

テマンが頼むと、ウンスは言うがままにこくこくとうなずいて、奥の荷物に小走りに寄って、上衣を両の手に一枚ずつ持ってくる。
こっちがいいです、とテマンは薄手の方を手に取ると、ふわりと自分ごとその衣を羽織って、前紐を緩く結んだ。小さく揺さぶられている背中の赤ん坊は、夜の静けさと春の風、そしてテマンの背中の温もりに頬を寄せて、先程までのグズグズが嘘のようになんだか眠そうにしだしている。

何がなんだかよくわからないまま、言うなりになっていたウンスに、テマンはにこりと笑ってみせる。

「お、俺はすこしばかりあたりを散歩してきます。
こんなにあったかい夜ですから、風邪も、ひ、ひかせやしません」

夜に赤子が泣いてどうしても泣き止まないってときは、おぶって外を歩いてやれって、まえにマンボ姐のところで子守をさせられたときにならいました、とテマンが話す。
客の赤子が泣くと、ゆっくり食えないから、お前ひとまわりしてきなって背負わされるんです。

「そのかわりに、お、おわったら、ク、ク、クッパが食えるんだ」

クッパを食べる仕草をしながらテマンは言う。
木にのぼったりしやしません、いま何にもいないのも見回ったばっかりです。
ただ、ゆーっくりこのあたりを歩くだけ、とテマンは上目遣いで、安心させるように手をくるりと回してこの近辺というのを示すと、ウンスをなだめるように言う。

「眠ったら、ここに戻って、ちょっとだけ寝かせます。腹が減ってまた泣いて、どうにも乳が恋しいようだったら、連れていきます。こ、これっぽっちも危ないめにはあわせません」

約束します、とテマンがぐっと力をこめて言うと、ウンスは気圧されるように、うなずいた。
ミョンソンはテマンの背中が心地よいのか、今のところ泣き止んでいる。

「じゃあ、ちょっとばかし出かけてきます」

テマンは軽快な足取りで、開け放した建物の扉から赤ん坊を揺らさないよう滑らかに出る。
それから一度、どこかにむかって歩き出し、姿が見えなくなった。
が、すぐに数歩戻って顔を見せると、ぼさっと突っ立っているウンスに向かって

「少なくとも二刻か三刻は戻りません。朝まで寝てくれりゃあ一番いいんだけど」

だから、その、時間はあります、あと一人でいると危ないからテジャンのところに行ったほうがいいです、と言い残して今度は本当に姿を消す。
無言のままそれを見送ったウンスは、たったいまテマンが口にしたことの意味をようやく飲みこんで、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。




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by kkkaaat | 2016-04-18 22:50 | 緑いづる【シンイ二次】 | Comments(19)

【シンイ二次】緑いづる16 ―それぞれの道行き―

「あー、面白かった! 見たあ? あのヨンの顔!」

二手に分かれて、互いの姿が見えなくなった頃、馬車の中からくすくすと思い出し笑いの声とともに、投げられた声に、思わずジホが手で口元を押さえる。

「あんまりからかうもんじゃないよ」

マンボ姐が、くくっと笑いながらも、ハヤンを諌めると、いやああいつも意気地がねえよ、とマンボ兄が横から口を出す。

「やっちまう機会なんていっくらでもあったじゃねえか。
同じ屋根の下で暮らしてたんだし、俺らがいるのが気まずいんなら、
この移動のあいだは離れてたんだしよお」

かー、あいつもだらしねえなあ、と首をひねるのに、馬鹿だねえ、医仙はお産をしたばかりだよ、これだから男は、とマンボ姐がかばうように言う。
マンボ兄は鼻で笑って食い下がる。

「でもよ、あれだろ、俺たちが着いた頃にゃあ、さすがにもういい頃あいだろう」

草を食もうとする馬のたずなを引いて、前へと進めながらマンボ姐は答える。

「ヨンはねえ、医仙のことなるとまあ、前っからああじゃないか。
やたらに心配ばかりして甲斐甲斐しくてねえ、
水だって薬だって全部手ずから飲ませてやって、
だいぶん元気になった後だって、そりゃあこまごまと世話しててねえ」

壊れもんでも扱うようだったからね、今でもきっとそうなんだろうよ、と懐かしそうに言うマンボ姐に、シウルが付け加える。

「ありゃあ度を越してたぜ!
やれクッパは二杯食わせてやれ、水はいるか、酒はいるか、
いや病み上がりだから酒はだめだ、熱いってえと冷ましてやるから小さい椀を出してやれ、
俺はあんなヨン兄を初めて見たからさ、ちっとばかり呆れたよ」

ジホがまた笑いをかみ殺しながら、櫛はどこで買えばいいのか、服はどこで買えばいいのか、マンボ姐さんのところに聞きにきてたよな、と相槌を打つ。

「医仙のものを買うとは言わないんだけどさ、ばればれだったよな」

シウルがそう言うと、

「だからね、まあ今度のこともヨンなりに、機を見計らってるんだろうさ」

マンボ姐が微笑んで返す。
シウルはヨンたちが進んでいるだろう方角を、馬の上に立って手をかざして眺める。
それから小さく馬の背中をかかとで軽く蹴ると、だく足で進ませる。

「お前、弓よりこ曲芸の上達のほうがはえんじゃねえか?」

マンボ兄が感心したようにそう言うと、シウルは得意そうににやりと笑ってみせた。

「ねえねえ、もうひと方、おとりがいるんでしょう? 
あちらさんもひと芝居打つのかしら?
やっぱ無理よねえ、むさくるしいウダルチのおんな姿だものね、
あたしとは違うわよね~?」

ハヤンがヨンの気苦労などどこへやら、そんなことをぼやいていたころ。




えーっくしょいっ、とチュモが大きなくしゃみをした。
なんだあ、風邪か、女物の着物はスースーするからなあ、とトクマンが声をかける。

「なあ、トクマニ」

兵営を離れ、襲撃もない、ただひたすらにのんびりとした道行の中、とうとう箱馬車の中でかつらも外してしまったチュモが鼻の下をこすりながら、横のトクマンに話しかける。

「だからさあ、ちゃんとテホグンって呼べって言ったろ」

あくびをしながら答えるトクマンの声も、緩みきっている。
仲間だけの旅程に、すっかり昔のウダルチ同士に戻っている。

「なあ俺たち、これでいいと思うか?」

正直、おとりになっているとも思えないんだが、とぼやくチュモに、トクマンが答える。

「そうは言っても、二日にいっぺんは、偵察の気配があるんだし、いないよかましだろう」

うーん、とすっかり着くずれをなおそうともせずに、チュモは箱馬車の中であぐらをかく。
今からでも何人か追いかけて、何かしらお助けしたほうがよかないか、と膝を叩きながら言うと、横で聞いていたエジが首をふる。

「だめだ、だめだ。つけられたら相手の思うつぼじゃないか。
それにな、偽物でも俺たちがこのままケギョンまで行くことに意味があるのはわかってるよな」

少し声を低くして、細い目をもっと細めてエジが続ける。

「医仙が戻ったってのはコリョのテホグンチェ・ヨンの策略で、罠にかかって皆やられた、この一行もその罠のひとつだったってあちらさんに伝わりゃあ、それでいいんだ」

そうだ、その通りだ、とトクマンが答えると、聞いていたムサが驚いたようにそのつるつるの頭をぺちんと鳴らす。

「なーるほど、そういうことなのか! 
おりゃあずいぶんと楽な任務でおっかしいなあと思ってたんだよ」

というと、トクマン、チュモ、エジがいっせいに、わかってなかったのか! と声をそろえる。

「テホグンもご夫人も、ご無事でいらっしゃるだろうか」

チュモはため息をつきながら、簾から細く透けて見える空を見ながら、そうつぶやいた。



くちゅんっ、とウンスが小さくくしゃみをすると、ヨンがたずなを引いて、馬を寄せる。
馬の後ろに詰んだ荷から、自分の衣をすぐに引き出すと、何も言わずに身を乗り出してウンスの肩にかけた。

「大丈夫よ、暑いくらいだわ」

ウンスが眉をしかめてかけられた衣を、つまんで持ち上げると、念のためです、と脱がぬよう目顔で押しとどめる。

「大げさね」

と肩をすくめると、用心深いと言ってください、とヨンは答えた。
ウンスが身体を揺すって着物を背中側にずり落とそうとすると、手綱さばきで少しだけ下がり、さっとまたそれをもとに戻してしまう。

「もうっ!」

ウンスは短く抗議の声を上げたが、あきらめてそのまま馬を歩かせ続ける。
ヨンはまたウンスの馬の横にチュホンを並べると、満足そうな笑みを顔に浮かべた。
それからうつむいて、ヨンは、胸元の赤ん坊に向かって話しかける。

「お前の母は言いだしたらきかぬ人だ。
ゆえに、俺が面倒を見なければならぬことが多くてな」

思わず、二人の後ろに馬を並べているチュンソクとテマンがぷっと吹き出すと、ウンスは振り返り、鼻の頭にしわを寄せて、おかしな顔で睨みつけた。
街道は海岸へと伸びているが、そこから南へ続く脇道にヨンは馬を進める。

「このまま行くと、今晩にはつけるだろう」

ヨンがそう言うと、チュンソクとテマンはほっとしたように、顔を見合わせた。





by kkkaaat | 2016-04-14 22:33 | 緑いづる【シンイ二次】 | Comments(12)

【シンイ二次】緑いづる15 ―芝居の一座―


「ね、ちょっと、なんかたまってるんじゃないの? すと、すと…、なんて言うんだっけ?」

箱馬車の布簾を手で持ち上げて、中からハヤンが横を進む馬上のウンスに尋ねる。

「ストレス、です」

ウンスは藍の野良着に頭には笠をかぶって男装しているが、外の景色を眺めながらで、表情は明るかった。
問われるままに、ウンスが答えると、ハヤンはそうそう、それ、と手を叩く。
屋敷に隠れこもったときに、暇にあかせてずいぶんとウンスから天界語を習ったのを、スリバンたちは機会さえあれば使おうとするのだ。

「そうそれ、すとれす。すとれすが溜まってるのよ。いろいろ心配なんだろうけどさあ」

ウンスの横でチュホンを進めるヨンは小声で、黙ってろ、とつぶやいて、不機嫌そうに前を見つめている。
溜まってるのはそっちじゃないんだが、と先頭を進むチュンソクが誰にも聞こえない声でそうつぶやいた。

「昨日だってなーにを怒ってるんだか、宿の椅子なんか壊しちゃって、ねえ、わけわかんないわあ!」

ハヤンがヨンのむっつりとした顔にそう投げると、ウダルチの麒麟鎧を身につけて、今では大分伸びた髪を後ろで一つに縛ったジホが、急いで馬を進めてウンスと馬車の間に割り込み、無理やり窓の引き戸を滑らせ閉じてしまった。
中で、なにするのよ! と騒ぐハヤンに、珍しく髪を髷に結い、これまた麒麟鎧を来たシウルが、窮屈そうに鎧の位置を直しながら、壁越しに言う。
二人の鎧はよくよく見ると、ウダルチのものとは違い皮に色を塗った偽物で、胸の麒麟もなんだか今ひとつ粗っぽい。

「おまえなあ、今回の働きに免じて、ヨン兄も手を出さなかったんだぞ。
ぼっこぼこにされなかっただけ、運がよかったろ」

えー、なあにー、それ、あたしヨンアにぼこぼこにされるようなこと、何かしたかしら?
馬車の中から響いてくる声に、ヨンの目が少しばかり大きく見開かれた。
ウンスが横目でちらりと見ると、ヨンは小さく頭をふって息を吐く。
ヨンにだけわかるように、ウンスが少し決まり悪げに笑って肩をすくめると、ヨンもまたウンスにだけわかる程度に微笑んて目を合わせた。

しかしお互いだけにわかるように、と思っているのは二人だけで、ジホがそれとわからぬ程に顔をそらして細く口笛を吹く。
シウルはそれを肘でつついて、テマンにやめろと手で合図されている。

ウンスは気づかないまま、ヨンに馬を寄せてその胸元を覗きこむと、ヨンが馬上で身体をかがめて、抱いた赤ん坊の様子を見せた。
ウンスは赤ん坊の顔にかかった髪をどけようと手を伸ばそうとして、ずるりと滑り、ヨンは慌てて腕をつかんで鞍の上に引き戻す。

「気をつけてください」

ヨンが思わず笑いながらそう言うと、ウンスが口を尖らせて、ちょっと気を取られただけよ、と言い訳する。

「だそうだ、ミョンソン」

ヨンは指で赤ん坊の髪の毛をかきあげながら、そう言った。
そんな様子を、マンボ姐がゆっくりと馬を進めながら、眺めている。
スリバンが合流して一時人数の増えた一行だったが、それもつかのま。

「おい、ここだぞー」

マンボ兄が、だいぶ先の分かれ道に立って、声を上げる。
すぐに、一行が追いつくと、ジホとシウル、マンボ兄妹、箱馬車は脇道へと馬で入り、ウンス、ヨン、テマン、チュンソクはまっすぐ進む街道に残る。

「マンボ姐さん」

わざわざ自分の馬を降りて、マンボ姐がそばまで来ると、ウンスは自分も馬を降り、手を握って名前を呼んだ。
マンボ姐はぎゅうとウンスの手を握り返して、そんな顔をするもんじゃないよ、と答える。

「なあに、ケギョンまであとちょっとじゃないか。すぐにまた会えるさ」

ウンスはそう言われて、涙のたまった目で、それでも笑顔をつくりながらうなずいた。

「気が利かない男どもに囲まれて、気が休まらないだろうがね、あと少しの辛抱さ」

お前たち、頼んだよ、まああたしが頼まなくたってこいつらはやるだろうけどさ、と言われて、テマンとチュンソクが深くうなずく。

「この借り、高くつくよ」

マンボ姐がヨンに顔を向けると、ヨンは目を見てこくりと無言のままうなずいた。
後ろでマンボ兄も、うんうん、とうなずきながら、返してもらうんだから、死ぬんじゃねえぞ、とつぶやく。
そこに、馬車の扉が勢いよく開いて、ふたたび女の格好をしたハヤンが顔を出した。

「借りなんて気にしなくていいわよ! だってこれ、楽しいんだもの!」

そう大声で言い放ったハヤンに、皆は苦笑いを浮かべる。
それに今度は、馬車にこもらないでいいんでしょ? とハヤンはしなを作りながら念を押す。

「このままソギョンまで、王と王女を助ける天女とえらあい武士の恋物語の芝居を打つ一座だってさんざん触れ回っていくから!」

この美しい医仙をご覧になりたきゃ、西京(ソギョン)までいらっしゃいってね、とハヤンが言うと、ウンスはこぶしを口に当てて笑いをかみ殺す。
ハヤンがウンスの癖の髪の毛をかき回す仕草を大げさにやってみせると、もうたまらなくなってウンスは大きな笑い声を上げた。
ヨンはため息をついて、じろりとハヤンを見る。

「ソギョンにて一度地下に潜り、気配を残さず帰京してくれ。次の落ち合う場所は、ピョンナンド(碧瀾渡、開京にもっとも近い港)だぞ」

ヨンがそう言うと、人使いが荒いわね、とハヤンがベロを出す。

「はでにやるぜ! 医仙が現れたって噂の真偽があやふやになるくらいにな」

シウルが見世物のように馬の鞍に、一本足で立って見せると、ウンスは今度は感心して口を手で押さえた後、パチパチと拍手を送った。

「ウダルチは、そのような曲芸はいたしませぬが」

チュンソクが断固とした口調で抗議すると、芝居の宣伝だからな、いいんだよ、とジホが答える。
まあせいぜい派手にやってくれ、とヨンが言う。

「やつらには、不確かな情報に惑わされて、高麗の罠に落ちたと思ってもらわねばならぬゆえ」

ヨンはそうつぶやくように言いながら、ぎゅっとたずなを握り締める。

「まかせておけ」

マンボ兄がしゃがれ声でそう答え、スリバンの皆がいっせいにうなずいた。





by kkkaaat | 2016-04-12 22:59 | 緑いづる【シンイ二次】 | Comments(14)

【シンイ二次】緑いづる14 ―新米アッパと白い肩―


「ああ、大丈夫だから、そう、脇に手を入れて、がしっと持ち上げちゃって」

寝台の上で、服を脱がせたまま置いてある赤ん坊を目の前に、ヨンは立ちすくんでいた。
そっと横抱きで持ち上げようと手を差し伸べると、背中にウンスの声が飛ぶ。
ヨンはぎょっとしたように振り返り、ウンスを見た。

「まことに、そのような持ち方で…?」

もう首が座ってるんだから、大丈夫だってば、と言いながらウンスが少し呆れたように笑う。
今までは、わずかばかりの間、ウンスの腕から受け取って抱くことがほとんどで、どちらかと言えば抱かせてもらうものと思っている節があった。

「しからば」

赤ん坊に対して小さく頭を下げて近づくと、まるで猫の子のように抱き上げる。
自分の顔の高さまで持ち上げると、しばし見つめ合った。
赤ん坊は、持ち上げられて、遊んでいるとでも思ったのか、あぶく混じりの笑い声をあげる。

「たしかに」

ヨンはゆっくりと振り返ると、ウンスに向かって言う。

「たしかに身体つきがしっかりしてきております」

そう言いながら、たらいまでを運ぶ。腕を伸ばしたまま、もののように赤ん坊を捧げ持っている姿がおかしくて、ウンスはまた少し笑った。

「何かおかしいですか?」

ヨンが王命でも拝受しているような真面目な顔でそう尋ねると、ウンスは、ぷっと吹き出しながらかわいいから、と答える。

「ミョンソンがですか」

話の脈絡が見えずに、ヨンが首をかしげる。
ううん、あなたがよ、とウンスが赤ん坊を受け取りながらそう言うと、ヨンが眉をしかめた。

「俺が、ですか」

そうよ、新米アッパさん、とウンスがからかうように言うと、ヨンはようやく意図がわかって、困ったように額を擦る。
こうしたことは、何もわからぬゆえ、とヨンがつぶやくように言い訳する。
ウンスがためられた湯を手でかき混ぜて、赤ん坊をそっとつける。湯は赤ん坊の脚をようやく覆う程度の量だった。

「手ですくってかけてやって」

ウンスがそう言うと、ヨンが恐る恐る手ですくった湯を、身体にかける。
赤ん坊が気持ちよさそうに黙っているのを見て、ヨンはわずかに安堵したようだった。

「これでよいのですか?」

頭を寄せ合って、赤ん坊を見下ろしながら、ヨンが尋ねると、ウンスが首をひねる。

「ま、いいんじゃない」

大雑把なウンスの返事に、ヨンの眉間にまた皺が寄る。
正しいやり方があるなら、教えていただかないと、とヨンが言い返すと、ウンスは肩をすくめる。

「だって私だって正しいやり方なんて知らないもの」

え? とヨンの手が止まる。
どういうことですか、と声が大きくなりすぎぬように詰めよると、ウンスが、だってえ、と答える。

「私、赤ちゃんの世話なんてしたことなかったし、百年前の村で産んだとき、世話のしかたを教えてはもらったけど、悪いけど非衛生的で」

たぶん、ほんとは現代の正しいやり方があるんだろうけど、調べようもないし、と赤ん坊の身体を手をこすりながら続けるウンスをヨンは呆然と見つめた。

「でも、あなたは医員ではないですか」

ヨンがようやく一言そう言うと、ウンスは口をとがらせる。

「私、美容外科医よ。産婦人科医じゃないもの」

憮然としてその口から出る言葉の意味はよくわからなかったが、ウンスが手探りで赤ん坊の世話をしていることはわかった。

「不安では…ないのですか?」

ヨンは思わず、身体を拭く布を手渡されながら、ウンスに聞く。
んー、不安は不安よ? でもまあ衛生管理についての知識はあるし、なんとかなるでしょ、と答えるのを聞いて、ヨンは小さく息を吐いた。

「すみませぬ、俺はそんなことも、気づかず」

ヨンが侘びの言葉を口にすると、ウンスはお湯から上げた赤ん坊と目を合わせると、にこりと笑いかけて、それから黙ったままヨンが手に広げ持った布の上に渡す。
慎重に受け取ると、普段の流れるような所作が嘘のように不器用な手つきで、ヨンは赤ん坊を拭いた。
手を脚を、まるで確かめるように拭うと、ウンスに指さされて、首元や耳の後ろも拭いてまわる。
気持ちよさそうに手足をばたつかせる赤ん坊に、

「はっ、はは」

と思わずヨンは声を出して笑いながらウンスを見た。

「かわいい?」

ウンスが尋ねると、ヨンはこくりとうなずいて、さっきよりもずっと器用に、小刻みに布を動かして髪の毛の水気をとる。
その様子を見て、ウンスは思わず顔をほころばせた。

衣を着せかけ、ヨンが腕の中で揺らしてやると、赤ん坊はうとうとと寝始める。

「これは、どういたせば」

それでもしばらくの間、うろうろと部屋を歩き回っていたヨンだったが、ぐっすりと寝入ったのを見て、ひそひそとウンスの耳元でささやく。

「そっと寝かせてあげて」

ウンスが言うと、ヨンは片方の寝台におっかなびっくり、赤ん坊を置いた。
ミョンソンは小さく何か呻いたが、口を鳴らしながら、そのまま寝入ってしまう。
ヨンとウンスは顔を見合わせて、ほっと一息をつくと、そこから離れる。
赤ん坊が寝てしまうと、することがなくなって、二人はまた顔を見合わせた。

「よく寝ています」

ヨンがそう告げると、ウンスが、旅で疲れたのかもしれないわね、と答える。
それからウンスはぱっと顔をあげて、たらいに歩み寄った。
数歩の間に髪を結っていた紐を外すと、頭を降る。
ほどけた髪を気持ちよさそうに指でほぐすと、おもむろに、チマの裾をまくりあげ、ソッパジを膝上まで引き上げて、片足を入れる。

「なにを」

するんですか、と言いながら、ヨンは目を見開いて慌てて背中を向けた。

「お湯が冷えてしまう前に、手足だけでも洗って、できれば身体を拭いてしまおうと思って」

まだ衣は脱がないから、大丈夫よ、お風呂じゃないから、と気楽な調子で言うのを聞いて、ヨンは目をつむってうつむいて、ウンスに気づかれぬようため息をつく。
それからそのまま窓に歩み寄って、外を見る。

「俺は、見張りをしますから、どうぞ気にせずに」

ヨンはそう言うと、窓の外に視線を集中させる。

そうさせてもらうわね、とウンスはヨンに言うと、身体を折って膝から下を洗うが、長めのソッパジ(ズボン状の下着)が邪魔になる。袖も丈も長いチョゴリの袖もすでに少し濡れてしまった。
顔を上げてヨンが背中を向けているのを見て、ウンスは思い切ってごそごそとソッパジを脱ぎ始めた。
チョゴリの紐も解いて、ばさりと寝台に投げる。
衣擦れの音がするたびに、ヨンはかすかに顔をしかめた。
衣が邪魔で、ウンスが脱ぎ捨てているのは見当がつく。
一枚脱いだ音がして、ほっと息をつくと、さらに一枚脱ぐ音が続いて、ヨンは窓枠に手をつくと、何かに耐えるように手の甲に額を押し付けた。

ウンスは椅子を引き寄せて、チマを少したぐりあげると、座ってたらいに脚をつける。
お湯はまだわずかに温く、硬くなった指先がほどけていくようだった。

「生き返るみたい」

そう言っても何も答えないヨンのかたくなな後ろ姿に、ウンスはちらりと視線をやる。
胸帯はウンスにしてみればチューブトップで、チマもはいているいま、見られて困るようなものは何もなかった。
ちょっとパンツスーツの足をまくっただけで、血相を変えて詰め寄ったヨンを思い出して、ふ、と笑う。

(高麗人ってほんと、慎み深いというか、行儀にうるさいっていうか)

子どももいる相手なのにね、とウンスは胸の中でぼやく。
戻ってから、ヨンが手を出してこないことについて、じれったさが頭に浮かぶときもあったが、それはすぐに赤ん坊の泣き声や世話で遮られる。
その気がないわけでないのは、こういったことには鈍いウンスでもよくわかった。
手を出してこようとしている空気も感じ取れるのだが、如何せん。


(いちばんの原因は、時間がないし、タイミングがあわなかったってことよね。
寝入った深夜に戻ってきてたし、ミョンソンは夜泣きするし。
無理に起こしてくれたっていいんだけど)

赤ちゃんっていったいいつごろから、夜ずっと寝てくれるのかしら?
そんなことを考えながら、ふうーと息を吐き、湯の中で足首を回す。

(いまは考えるのはやめよ、やめ)

つけた足に手を伸ばして、指の間やかかとを擦ると数日感の汚れが取れて、生き返るようだった。
手も腕も、洗えるところは全部洗って、ウンスははたと気づく。

「ね、ええと、手足を拭きたいの。布を取ってくれない?」

椅子の上にあるでしょ、とウンスが頼むと、窓際のヨンの背筋がぴしりと凍る。

「大丈夫、脱いだのはソッパジと上着だけだから」

嫌ならこっちを向かないで、投げてくれればいいわ、とウンスが言っても、しばらくの間ヨンは動かなかった。
別に遠慮するようななかじゃないんだし、とウンスが追い打ちをかけると、はあ、と大きなため息をついて、ヨンが天井を見上げる。
それから、目を伏せがちに椅子まで歩み寄って布を手に取ると、ウンスを直視しないように壁を見つめて、横に立つ。

「ありがとう」

布を渡そうとウンスの方へと手を伸ばすと、視線がわずかにそちらに流れる。
ウンスから伸びた手の白い肘から指先までが視界に入り、ヨンの顔は強い磁石に否応なく引き寄せられる鉄のようにそちらに傾いた。
やけに白い肩と下ろされた赤っぽい髪先が残像のように目に焼き付いたところで、無理矢理に顔を戻す。

「ね、布がほしいんですけど」

ヨンははっと我に帰ると、自分の手元に握り締めた布を見下ろした。
それから、目をぎゅうとつむると、ほとんど間をおかずにぱっと開いて、今度は身体ごとウンスに向き直って、布を片手でばさりと広げる。

へ、っとウンスが少し驚いて声を出すのと、ヨンが後ろに回りふわりと肩に布をかけるのが同時だった。
布をかけただけでは飽き足らず、ヨンはその布越しに、ウンスの肩に手を乗せる。
ウンスは身体を少しばかり強ばらせて、何も言えなくなってしまった。
右肩に乗せられた布の上に乗った指が、ゆっくりといなくなって、ウンスはほっとしたような少し残念なような、入り混じった気持ちで肩の緊張を抜く。

「あなたが遠慮なさらないなら、俺も遠慮はせぬ」

とたんに耳元でささやかれて、ウンスの顔が見る間に紅潮する。
今なら幸い時間もある、とヨンの息が髪にかかると、あの、そういうつもりじゃ、と消え入るような声でウンスが言う。
かまわずに、ヨンの唇が薄桃を散らした首筋に落ちた、その時。


「ヨンアーー!! お待たせええ!!!」


来たわよおお!!! という声と同時に、バーンという両開きの扉がいっぺんに開かれる音が、二階の二人の部屋にまで響き渡る。

首筋に触れた唇が動くと、ゆるさぬ、という地獄の底のように低い声が、ウンスには聞こえた。

「身支度を」

そう言うと、名残惜しそうに首に押し付けられる感触を最後に、ヨンの顔が上がる。
隣の部屋の扉がパーンと勢いよく開く音がすると、ウンスとヨンの部屋の前を階段に向かって軽いのと重いのと二つの足音が駆け抜ける。

「おいっ、お前たち、もそっと静かに頼む!」

階上からチュンソクが自分では声を潜めているつもりで、下に向かってわめいているのが聞こえる。階段をたたたと転げ落ちるように降りる音と、お、おまえら、テジャンに殺されるぞ、と言っているテマンの声も聞こえた。

「手はずはどうだったか、聞いてまいります」

少しお休みください、と言うヨンに、真っ赤な顔のまま、ウンスは小さくうなずいて見送った。





by kkkaaat | 2016-04-07 20:31 | 緑いづる【シンイ二次】 | Comments(16)

【シンイ二次】緑いづる13 ―しばしの休息―


「今日は宿に入ります」

ヨンがそう告げると、ウンスはふうと安堵して、わずかに肩の力を抜いた。
追っ手を警戒して、二日の間、人目を避けて宿にも入らなかったが、産まれて半年たたぬ赤ん坊をかばいながらの野営はあまりに不便が多く。
それでもウンスは以前のようにあけっぴろげに不満を口にはしなかった。

―やはり数え切れぬほどの苦労をなされたゆえ…。

ヨンのいる高麗に戻ってから、ぽつりぽつりとウンスの口から語られる百年前の話では、命にかかわるような話は出てはいなかったが、一人突然放り出されたウンスの気苦労を思うと、ヨンはわずかながら腹の奥にむかつく嘔気を感じるのだ。

「正直嬉しいわ。自分もなんて贅沢言わないから、ミョンソンにお湯を使わせてあげたいの」

あとは荷台の上でじゃなくて、ベッドで寝たいわ、やっぱり私アウトドア派じゃないのよね、とウンスが続ける。
未だに耳慣れぬ天界語が混じるのを、ヨンはもう昔のようにはとがめたりはしなかった。
ウンスの口から、明るい調子で聞き慣れぬ言葉が飛び出すのを楽しみにさえしている。

「ベッドというのは、寝台のこと…でしたね」

三人がいっせいにヨンを見る。
テマンの目が丸くなって、ヨンを指さした。

「テ、テジャンが天界語をしゃ、しゃべった!」

ヨンが意外か、と小さく笑う。
意外よ! とウンスがこれも目を見開いて答える。

「だってあなた、意地でも天界語を使わなくて、私、あの手この手で言わせようとしたけど、なかなか言わなかったもの」

たしかに、とチュンソクがうなずく。

「ものの名くらい、口にしても差し支えなかろう」

あまりに三人が驚くので、ヨンは決まり悪さで目を泳がす。
もちろんそうでございますとも、とチュンソクがすかさず助け舟を出した。

「あ、あうとどあーというのは、ど、どういう意味ですか?」

ウンスの説明にうなずきはじめたテマンを横目に、ヨンはチュンソクに馬を寄せる。

「ここらから一刻ほどの街道の分岐に、旅人宿があるはずだ。
そこで落ち合うことになっている。
先に行き、道沿いと宿の安全を確かめ、部屋をとれ」

チュンソクは、はい、と頼もしく答えたあと、ヨンの耳に顔を寄せる。
部屋の一つは若夫婦が使うゆえ、配慮が必要だと宿主に伝え、奥まった部屋を頼んでおきますのでご安心を、と右頬を得意げにくいっと上げて見せる。
と、ヨンが言い返す間もなく、馬の腹を蹴ると駆け出して行ってしまった。

「おっ、なにをっ、チュン―!」

一瞬呆気にとられたヨンは、土煙を立てていく背中に、守備のし易さの方が肝心だぞ、と急いで言ったが聞こえた風はなく。

「ったく、あいつ」

はあと一つため息をついて、ヨンは荷馬車の横に馬を戻した。




こちらの部屋でいかがでしょうか、と通された場所は、チュンソクがいくらか握られせたのか、すでにお湯の入った水差しと盥、多めに掛物も用意されていた。
宿主が扉を閉めると、すぐにヨンは窓へと早足に部屋を横切った。
隣の部屋へと案内されたチュンソクとテマンも、階下へと降りる足音が聞こえるとすぐに、こちらの部屋へと入ってくる。
窓の横に身を寄せて、念入りに外を見ているヨンを横目で見ながら、ウンスは赤ん坊を寝台にそっと置くと、その横に腰掛けた。

赤ん坊は、寝返りでも打ちたそうに、身体をよじり、小さく声を上げる。
テマンは、ヨンとは斜向かいの窓に張り付きながら、ちらちらと目を取られ、我慢できずに一歩近づくと、舌を出しておかしな顔をしてみせた。
笑い声と奇声の間のような声を、赤ん坊が上げると、嬉しそうににやついてウンスと顔を見合わせると、また窓へと戻る。

物入れや寝台の下などをチュンソクが見届けると、ヨンの傍らに寄った。
ヨンが窓から目を離して、チュンソクの方を向く。

「テホグン、不審なものはございません」

窓外にも、特に変わったことはないな、とヨンは告げ、テマンを見る。
テマンが首をふると、三人ははじめて、ほうっと息を吐いた。

「隣の部屋も、道に面しておりますゆえ、私とテマンとで順に見張ります」

テホグンとユ夫人はしばらく休みをお取りください、とチュンソクが頭を下げる。
ほんとうにありがとう、と少し疲れの見える声にしみじみと思いをこめてウンスがそう言うと、チュンソクはいやいや、と照れたように両手を前でふりながら、部屋を出る。
晩は俺も張番に入る、とヨンが言うと、テマンはこくりとうなずいて扉をしめた。

「あああーー」

二人がいなくなったのを確かめると、ウンスは急に大きな声を出して伸びをする。
それからウンスは寝台に上に両手両足を伸ばして、寝そべった。
大の字になって野の地面に比べればよほど柔らかい寝台の感触を、思う存分に堪能する。
寝転がってしまったウンスを、ヨンは少し笑いながら見下ろした。

「お疲れでしょう、少し昼寝でもなさってください。俺は見張りますから」

ヨンがそう言うと、ウンスはすでに眠気が襲ってきたような顔で、そうね、とつぶやいたが、でも、と勢いよく起き上がる。

「その前に、ミョンソンをね」

お風呂に入れちゃわないと、と腕まくりをしながら立ち上がる。
二人の赤ん坊は、この時代の大抵の赤子よりも清潔に保たれていたが、ウンスにしてみれば、まだそれでも足りないというような気持ちだった。

大きな水差しを持ち上げ、盥に入れようとして、重さによろめきそうになったところを、急いでヨンが手を添える。
ありがとう、と言いながら、湯を張るウンスの横顔をじっと見つめて、ヨンがためらいがちに口を開く。

「俺が…俺がやりましょうか」

ウンスは少し驚いたように、ヨンに顔を向ける。

「じゃあ…手伝ってもらおうかな」

夜半遅くに兵営から戻り、朝早くに兵営に戻る生活で、ヨンはほとんど赤子の世話ということをしたことがなかった。休みの日などといったものも、この二ヶ月間ヨンにはなかったので、風呂をつかわせるところを見るのさえ初めてのことになる。

「じゃあまず、湯を張ってもらえる?」

水差しを渡すと、ヨンは神妙な顔で湯をそそぐ。
ウンスは、どんな風にそそいでも同じなのに、と少しばかりおかしかったが口には出さなかった。

「イムジャ」

ヨンが急に顔を上げる。
あまりに真剣な顔をしているので、ウンスは思わず、不安にかられて、ヨンのそばに寄った。

「これでは、少し熱うはありませぬか?」

お湯に触れて、ヨンが重大事でもあるようにそう言うのを聞いて、ウンスは口に手を当てて笑いをこらえた。





by kkkaaat | 2016-04-04 23:45 | 緑いづる【シンイ二次】 | Comments(10)

【シンイ二次】緑いづる12 ―荷馬車に揺られて―

「イムジャ、またこのような…」

ヨンは眉をひそめて小声でつぶやくと、馬を寄せて身を乗り出し、荷馬車の穀物袋によりかかり、布にくるまれた赤ん坊を胸に、うとうとと目をつむっているウンスの乱れてソッパジの見えているチマのすそをなおしてやる。
色褪せた紺色の上下はひどく粗末なものだったが、夫を持つ女の着るもので、ヨンはそれを来ているウンスが目に入るたびに、そこはかとなく緩む口元をそのたびにぐっと締め直していた。

ヨンもまた、商人のような薄れた藍の着物を緩く身にまとっていた。
チュンソクはつぎのあちこちにあったった茶の上下に笠をかぶり、のんびりと馬に揺られている。
荷馬車を御するために前に座ったテマンは生成りの衣をまとって、農夫がどこかに荷を運んでいるとしか見えなかった。

開京からは遠ざかる、海へと向かう細道を、四人は安穏として進んでいた。
馬の並足が心地よいのか、チュンソクがふああと大きなあくびをして、はっと気づいてごまかすように口を狭め、ヨンに話しかける。

「だいぶ、雲が出てきたようですが」

ヨンはそう言われて、顔を空に向ける。
次の宿までもちそうにないな、とつぶやいて、具合のいい木を見つけたら天幕を張るぞ、とチュンソクとテマンに向かって言った。
二人は、間延びした声で、あーい、と答える。

「ど、どうですかねえ、ど、どっちかの方には行ったと思いますか?」

テマンがたずなで緩く馬の背を打ちながら、ヨンにたずねる。
ヨンは軽くうなずいて、テマンを見る。

「こっちには襲撃がない。追っ手がかかっている気配もない」

どちらかが相手をしているだろうよ、そのための囮だ、とヨンが言うと、チュンソクもうなずく。

「いやあ、まさか二手もおとりをだすとは思いませんでした。トクマンのやつ、自分たちがおとりのおとりだとは思ってないだろうなあ」

チュンソクがそう言うと、テマンが少し怒ったように言う。

「い、いくらなんでもトクマンがテジャンじゃ、相手も騙されませんよ。
背格好が似てたって、あんなのどこからどう見てもテジャンじゃない」

それを聞いて、チュンソクとヨンが声をあげて笑う。
ウンスはその笑い声で、目をこすりながら身体を起こした。

「なあに、おもしろい話?」

ヨンがすぐに馬を寄せる。
たいした話ではありません、と言ったヨンの顔が兵営にいたときよりよほど明るくて、ウンスは思わず顔がほころぶ。

「あれ?」

頬にぽつりとした感触があって、ウンスがふいと顔を上に向ける。
間隔をあけて、ヨンが、次のテマンが、最後にチュンソクが上を向き、四人で空を向く。

「降ってきましたねえ」

とチュンソクは言って、馬から身を乗り出し、荷馬車に積んである天幕布を横から引きずりだして、ウンスの近くへと寄せる。
まだたいして濡れもしませんが広げて頭の上に、と言うと、ウンスはすぐに巻いてある織物の端をほどいて、一枚の布にしようとするが、赤ん坊を抱き座ったまましようとすると、意外に重さがあってうまくいかない。
立ち上がろうとして、荷馬車の揺れに尻餅をついたのを見て、ヨンが慌てて近づくと、

「チュホンを頼む」

とたずなをチュンソクに投げ、あぶみからそのまま荷台に飛びうつる。
それを見て、ウンスは安心したように座り直し、ヨンが天幕のはしを広げて自分の上に広げるのを待った。
ヨンはウンスにそれをかぶせると、赤ん坊を抱いてふさがったその手を見て、顔を上げる。

「俺はこっちで雨よけになるが、いいか」

テマンが振り返り、よさそうな木を探しながら進みます、と声を投げる。

「馬は引きますのでお任せを」

と雨を気遣いウンスとヨンを見ていたチュンソクが、ほっとしたように応えた。
ヨンはうなずいて、ウンスの横に身を寄せて座りこむと、腕を少し上げて自分とウンスにかかる天幕を支える。
大丈夫よ、頭に乗っけてればいいんだから、とウンスが言うので、少し力を抜いて二人の顔にかかるくらいに下ろすと、荷馬車の後ろに続くわだちとチュホンの馬体が視界になった。

「おいっ、プジャン」

テマンが前から呼ぶと、チュンソクとチュホンが、荷馬車の前へと消える。
何か前で話している声がするが、特に大事ではないようで、ヨンとウンスは黙ったまま遠ざかっていく景色を眺めていた。
馬の足音と車輪の回る音がしばらく続いた後、ヨンが口を開く。

「俺がいたらぬばかりに、めんどうをかけます」

なにが、とウンスが首をかしげる。
本気でわからないようで、ヨンの顔を覗きこむ。
ヨンは、ウンスの丸くなった目に、思わず少し笑いながら答えた。

「このような荷馬車で旅をするはめになりました」

とヨンが言うと、ウンスはなーんだ、と言いながら肩でヨンをとんと押した。
ぶつかられて、ヨンは何を、というように顔を向ける。

「あいかわらず、なんでも背負いこむのね」

と顔を横にしてヨンに微笑みかける。
赤みが目立たぬよう結った髪からほつれた数本が、頬にかかる。
第一もともとは私のせいじゃないの、とウンスがふざけたように眉をしかめて言うと、でも、とヨンはあらがってなにかを言おうとするが、ウンスは指でそっとヨンの口元を押さえる。
ね、私、いますごく楽しいのよ、と指を離しながらそう言うと、ヨンはなぜというように目に力を入れる。

「箱馬車じゃ息がつまるわ。たくさんの護衛もそう」

たくさんの兵に囲まれて、そりゃ立派なお屋敷だったし、手伝いもたくさんいて身体は休まったけど、でもね、と一度言葉を切って、そのために戻ってきたわけじゃないわ、とウンスが言う。
見て、とウンスは顔を戻して上げ、ゆっくりと遠ざかっていく樹々や道や土埃に顔を向ける。
ほら見て、とうながされて、ヨンもウンスから顔を戻す。

「こんなふうに、のびのびとするの、戻ってから初めてじゃない?」

ミョンソンも寝ててくれてるし、と言うとヨンはウンスの腕の中のミョンソンに目を落とし、それから顔を上げてまたウンスを見た。

「護衛なんかたくさんいなくたって、あなたがいてくれれば安心できるの。
だからいまはすごくリラックスしてる…とても気持ちよくくつろいでるって意味よ」

それから、ウンスはほんの少し口を尖らせる。

「同じ屋敷で寝泊りはしてたけど、会えるのは夜だけ」

だから、私、こうしてずっとあなたと一緒にいられて、いますごく楽しいの、とウンスが微笑むと、ヨンはあらがう言葉がなくなって、ただウンスの目を見つめる。

天幕を支える手がほんの少し引き下ろされて、二人の口元までがゆるやかに隠れた。
ヨンは身体をそっとウンスに向けて傾かせ、ひっそりと止まる。
幕の中に生まれたわずかな暗がりの中で二人の唇が重なって、馬車が石に乗り上げてガタンと揺れても離れようとはしなかった。
ヨンはしばらくの間、おとなしく口づけるだけで抑えていた。
が、長く幕をつかんでいた手の片方だけを外して、ウンスの肩の後ろの穀物袋に置き、口づけが深くなるよう位置を変えたころ。

しばらくの前から馬の足音も車輪の音も消えているのに気づいた。

「どうした」

なにごとか。
剣呑な気配はなかったので気づくのが遅れたと舌打つような気持ちで、ヨンは鋭くたずねる。
荷馬車の前方から、決まり悪げな声が答える。

「あ、あの、具合のよい樹木が見つかりましたゆえ、馬車を停めさせました」

チュンソクがそう答えると、

「お、俺はそのまま次にい、いい木が見つかるまで、すすす進もうってちゃんと言いました!」

とテマンが声をかぶせる。
しかし、雨も徐々に強くなってくるし、次にまたよい場所が見つかるとは限らぬだろうが、とチュンソクがテマンに言うのが聞こえると、ヨンは、深々とため息をつき、身体を起こす。

「チュンソク、正しい判断だ。急いで天幕を張るぞ」

立ち上がってそう告げた後、ヨンはもう一度誰にも聞かれぬよう嘆息した。




by kkkaaat | 2016-03-29 20:51 | 緑いづる【シンイ二次】 | Comments(18)

【シンイ二次】緑いづる11 ―身代わり―


「おーい、テホグン! こっちの道でいいのかあ?」

外で、エジが尋ねる声がする。
いつもより、少しばかり高いテホグンの声が、右手に折れる太い方の道だ、と答えているのが聞こえた。
チュモはもう何度目になるか、箱馬車の窓の布簾を持ち上げて、外をのぞく。
自分の乗る箱馬車を取り囲むように進む、三十ほどの騎馬が見える。
初夏の緑の濃い街道を、のんびりと揺られていると、いつもなら眠気が襲ってきそうなものだが、赤の着物の下に隠した剣の柄を握り締めているチュモはわずかに緊張しているのか、眠くなる暇もなかった。

「おーら、のぞくなって言っただろう!」

窓の横に馬を寄せたトクマンが、馬車の外から手をつつこうとする。
チュモはひょいと手を引っこめてそれを避けた。

「はいはい、テホグン殿。仰せの通りにいたしますよ」

位階はトクマンの方が上だが、于達赤で長く同僚として過ごしてきたので、いまだその仲は気安いものだった。
なんだその口の聞き方は、大護軍に向かって失礼であるぞ、とトクマンが言う。

「当の本人が言ってちゃ世話ねえや」

と小声で言い返すと、耳ざとく聞きつけたトクマンが馬車をドンと蹴った。
チュモは、自分の身体にまとわりつく、やけに柔らかい絹地をつまんで、そのへなへなとした感触に困惑してぽとりと落とす。

大護軍にこの赤い着物を見せられ、お前にはユ夫人の身代わりをして、囮になってもらうと言われたときは、しばらく木偶人形のように動けなくなった。
俺が、医仙?

――ユ夫人はこのような真っ赤で雅やかな衣など身につけていらっしゃらなかったではないですか!

あまりに艶やかな赤にうろたえて、そう言い募ると、大護軍は、権門の子女が着るような高価な衣でとにかく目立てばよいのだ、とぞんざいに言う。せめて空色か何かであれば、と考えて、いやどちらにしろ女の着物ではないか、と諦めた。

ため息をついて、うつむくと鬘の髪の毛が前にたれてくる。
チャンオッ(頭を覆うマント状のもの)をかぶるから、鬘はいらないと言い張ったが、皆して、いや敵はどこで見ているかわからない、用心の上にも用心が必要だとはやし立て、大護軍までが少し面白そうな顔をして、かぶっておけ、と言われたのだ。

「うあああ」
自分の女姿がどのように見えるのかを思い浮かべて、たまらずに呻いて大の字になって馬車の中に寝そべると、エジが外から布簾をわずかに持ち上げて中をのぞき見して、くくくと笑う。

「おい、高貴な女人はそんなことはしないぞ」

エジもさほど背が高くなく、チュモよりむしろ痩せぎすでウンスに背格好では一番似ていたのだが、顔の右側に刀傷があるからと難を逃れたらしい。
顔なんか隠して馬車に乗るんだから、あいつでよかったじゃないか、とチュモは口には出さずに頭の中で文句を言った。

「おいおい、奥方殿、もうお疲れですか」

外から大護軍の衣を借りたトクマンがからかうように声をかける。
大護軍の身代わりに選ばれたときには、有頂天になって鼻を高くしていたトクマンだが、お前が一番背が高いからそうしたまでだ、と大護軍に尻を蹴られていた。

「テホグン、何か見られてますよねえ」

チュモが大の字から身体を起こして、ため息をつきながら小声で尋ねると、トクマンが顔は馬車に向けず前を向いたまま、答える。

「さっきから尾根沿いに時折人影が見えている、後をつけてるんだろうな」

でも、二人か三人だ、数はいねえな、とトクマンの横に馬を並べて、タムが気の抜けた声で言う。
早く襲ってくりゃあいいのに、と光る頭を手で撫でながら、物足りなそうに言うのを、ちらとトクマンが眉をひそめて見る。

「あれか、多少の探りは入れてはいたが、手勢を連れて襲撃するほどの数はまだ送りこんでなかったか」

そう言われて、いや、夫人が戻られてふた月あまりもあったからなあ、とトクマンはかすかに首をかしげる。

「おまえも征東行省の役人連中が、コリョの選軍にゃ仙女だか妖魔がついて勝たせてるって噂してたのは知ってるだろう? 
あいつら領地も地位も失って大失態だからな。
仙女を捕まえりゃ、また勝てると思ってるふしがある」

断事官は四年前にユ夫人にじかに会ってその手業も見てやがるしなあ、とトクマンが言うと、ありゃ人外の美貌と色香だから妖魔と言われてもしかたあるまい、とエジがつぶやく。

「そんなこと、テホグンに聞かれたらぶっ飛ばされるぞ」

とトクマンがいもしないヨンを警戒するようにあたりを見回す。
タムが、いや見た目は傾国の麗人かもしれんが、思いのほか気やすい方だぞ、と庇うように言う。

「だからテホグンの気が休まらんのじゃないか」

自分が大護軍のはずのトクマンが、すっかり気を緩ませてそんな風に言った。

すっかり話に夢中な馬車の外の男たちをよそに、まさか大護軍たちの方を嗅ぎつけたんじゃないといいが、チュモは細く開いた窓から、もう一度尾根へと目を凝らしながらつぶやいた。





チュモの懸念はいみじくも当たっていた。
その頃、もう一つの箱馬車を、五十人余りの男が取り囲む。
大きな街道を迂回して進む一行は、川沿いの細い道で待ち伏せに合ったのだ。
黒塗りの笠を目深にかぶり、柿茶の地味な着物をまとっているが、手に剣を構えるその様子は、商人にも農夫にも見えない。

「替え玉に引っかかると思ったか!」

小柄だが目の血走った男が、口から泡を飛ばしてがなる。
目立たぬようにと考えたのか、小ぶりの箱馬車に、四人の護衛が馬で付き従っているのみだった。
兵を見ると無言のまま、一人が馬を降りて槍を構え、一人が弓を、年かさの護衛二人が剣を構える。

「おとなしく医仙を渡せば、悪いようにはせぬ。楽に死なせて――」

馬上でそう告げはじめた男の舌をひゅうと矢が射抜くと、

「あ、まだ話の途中だった? ごめん、ごめん」

と少年のような護衛がぺろりと舌を出した。
射抜かれた男が馬からどうっと落ちるのと、兵がいっせいに斬りかかるのが同時だった。
剣の二人は馬の上から二、三人に切りつけたが、馬脚を攻められてすぐに馬から降りて戦いだす。
たちまちのうちに乱戦になる。

護衛たちは、箱馬車を囲むように戦いはじめたが、多勢に無勢、馬車の扉ががら空きになった。
大柄な髭だらけの男が、

「逃げ切れると思ったか!」

と言いながら扉を大きく開け放ち、狭い箱馬車に乗りこむ。
あっちは男が化けているのはお見通しなんだよ、さあ来てもらおうか、と下卑た声で言うと、馬車の隅で震えている女の赤みがかった髪をつかんだ。
その髪がずるりと抜けて、男は目をありえないほど大きく見開いた。

「あら、残念ね。こっちも男なの」

振り向いたハヤンは、嘲るように笑いながら、男に向かって刀身の長い剣をなめらかに差し出す。
白光りする刃は、やすやすとその身体に埋まった。
口の聞けなくなった身体からずるりと刃を抜くと、ハヤンは血しぶきで汚れた薄桃の着物を指でつまんで、チッと舌打ちをする。

「これ気に入ってたのにさあ」

立ち上がって凄みのある太い声でそうつぶやいているハヤンに、元兵と槍を合わせながらちょうど扉の前に立ったジホが中を覗きこんで怒鳴る。

「早く出てきておまえも戦えよ! 一人頭十人だぞ!」

思ってたより人数多いんだから、さぼるんじゃねえぞ、と言いながら、ジホは後ろから斬りかかる兵の顎を槍の柄で砕くと、その反動で前につき出して刺し通す。
その奥で、久しぶりの戦いにふうふうと息を荒くしているマンボ姐が見えた。
剣を受け止めて押し合いになり苦戦しているようだった。

「ちょっとこっちを手伝っとくれ、だれか」

と叫んだその背後から元兵が斬りかかるのが、箱馬車の高い位置から見下ろすハヤンには見えた。

「あっぶなーいっ!」

ハヤンが叫ぶのと、シウルが死体に突き刺さった矢を駆け抜けながら引っこぬき、弓につがえずにその兵の首に投じるのが同時だった。
見事に首を貫かれた男は、剣を振り上げた形のまま、動きが止まる。
マンボ姐の後ろで、息の根のとまった男が静かに膝を折り崩れ落ちるのを見て、ハヤンはほっと息を吐く。
シウルは、見たかいまの! と叫びながら駆け抜け、また素早く一人射抜く。

「礼は後で言うよ」

ようやく目の前の男を切り伏せたマンボ姐が、シウルの背中に言葉を投げた。
気づけばほとんど兵は切り倒され、最後に一対一でそれぞれ斬り結びはじめた男たちを横目に、マンボ姐は剣を地面に杖がわりに立てて、はあはあと息をきらせている。

「あら、これでおしまい?」

と三人目をやすやすと仕留めたハヤンが見回すと、すでに岩に腰掛けたマンボ兄が額の汗を拭っている。

「俺があらかたやっちまったよ」

とうそぶくのを、いや俺だ俺だと、ジホとシウルが戦いながら反論した。
お前らまだまだやってんのか、修行が足りねえよ、と言われて、師父が稽古をつけてくれないんじゃないか、と決着のついたジホが言い返すと、マンボ兄は聞こえぬふりで目をそらす。

「ヨンたちは、無事に行けているといいんだがねえ」

マンボ姐がようやく整ってきた息でそう言うと、こっちを本命だって追いかけてきたんだから、あっちは平気だろうさ、と兄が答えたところで、ようやく最後の一人をシウルが倒した。

「お前ら、しゃべってないで、手伝えよな! ほんと薄情なやつらだな」

なげくシウルの横でジホが、なんだまだ戦ってたのか、気付かなかったと、とぼける。

「じゃあこれで、あたしらはお役目を果たした、ってことね。
そんじゃあ、ヨンを追っかけるわよ!」

ぐったりと座りこんだシウルの横で、息ひとつ切らしていないハヤンが、元気よく手を振り上げてそう言った。






by kkkaaat | 2016-03-28 20:37 | 緑いづる【シンイ二次】 | Comments(18)

二次小説。いまのところシンイとか。
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