どうしても互いの身体に回した腕を、離す気持ちが起こらずに、
ずいぶんと長い間、二人はその小庭の黄菊の前でそうしていた。
と、やおらチェ・ヨンが立ち上がると、ウンスを肩に担ぎ上げる。
何をするのとぎょっとしたウンスは、驚いて最初は声もなかった。
ね、ちょっと、なに? と慌てているうちに、チェ・ヨンは大股で歩いて、
先ほどの道を戻り、屋敷の入口に立つ。
危険でも迫っているのかと、周りを見回したが特に人影も見えず、
担がれているので顔は見えないが、チェ・ヨンの足取りから伝わってくるのは
落ち着きと、いつにない軽やかさだ。
「ねえ、ちょっと!」
ウンスはチェ・ヨンの背中を小さな拳で何度か叩く。
何が起こってるの? と問うている間に、屋敷の入口をチェ・ヨンは開いた。
先ほど馬の世話を頼んだ男が控えている。
ウンスが担がれているのを見て、わずかに驚いたが、うまく隠して頭を下げる。
突然、チェ・ヨンが大声を出したので、ウンスは驚いてびくりとした。
「これより二刻、皆にいとまを申し付ける。
屋敷より出て、茶店でも市でも好きな場所に行ってこい」
目の前の男は、承知いたしました、と一礼すると一度屋敷の中に駆け込み、
母親だろうか、何か炊事をしていたのか、手を拭きながら現れた女と二人で
出て行った。年上の女は、ぎょっとして目を開いて、お辞儀をするのも忘れて、
小走りに横を通り過ぎた。
あと一人か二人、門から出ていく足音がして、屋敷は静まり返った。
そのまま、履物を脱いでチェ・ヨンが上がろうとするので、
ウンスはばたばたと肩の上で暴れだした。
「下ろして、下ろしてちょうだい! 自分の足で歩けるわ。
ねえ、どうしようというの。説明してよ! なんで皆を追い出したの」
下ろしたら意味がないではありませんか、とチェ・ヨンは戸惑った声でそう言った。
「ねえ、ほんとに。教えて、何を、しようと、して、いるのよ!」
甲高い声でウンスがわめくと、チェ・ヨンは担ぎ上げていたウンスの脚を引いて
ずり落とし、前で抱きしめるようにして、止めた。
それでも執拗に、ウンスの足を地面につけようとしない。
「新しく結婚をした者が、屋敷に初めて入るときは、夫が妻を担いで中に入るものだと」
ウンスはチェ・ヨンの腕に両手をつっぱって、抜け出そうとするが、びくともしない。
暴れるのを諦めて、ため息をついて呆れ顔で、チェ・ヨンの肩に手を置いた。
「だれに聞いたの、そんなでたらめ」
ウンスがそう言うと、チェ・ヨンは動揺したように目を泳がせた。
叔母が、あなたが天界でそうすると言っていたと、と呆然としている。
ようやくチェ・ヨンの手から力が抜けて、ウンスはとん、と着地した。
その顔を見て、ウンスはもう可笑しくて可笑しくて、チェ・ヨンの頬に手を当てる。
「担いで、じゃないわ。抱き上げて、よ」
おぼろげだが、酒宴の席で、ずいぶんと天界のプロポーズやら
ウェディングについて尋ねられて話した覚えはある。
出発前にでも話したのだろうか、チェ尚宮も仕事が早い。
「もう、筒抜けね」
チェ・ヨンの胸を手のひらで叩くと、ばつが悪いのか、まったく、
と悪態をついて顔をそらす。
ウンスはくつくつと笑いながら、チェ・ヨンの首に両腕を絡める。
大丈夫、まだ家に上がってないわ、とウンスが言うと、チェ・ヨンはおとなしく
ウンスを抱き上げた。
本当に軽々と抱えられて、自分が空に浮かぶ羽になったみたいな気分だった。
「これでよろしいか」
戸惑ったような、それでいて、わずかに子どもみたいに得意げな気持ちをにじませている
チェ・ヨンの口調がウンスには愉快でたまらない。
それでは、と真面目に言っておもむろに部屋に上がろうとするのが、また可笑しくて、
ウンスは脚をばたつかせて、頭を仰け反らせて笑う。
「何がそのようにおかしいのですか」
尋ねながら、チェ・ヨンもウンスの笑いがうつったように、笑っている。
笑いを噛み殺そうとして、顔を伏せて、また笑みが顔を上げさせる。
自分で自分の笑いに戸惑うように、顔をそらすが、それでも隠せない。
こんなふうに笑うこの人を初めて見たかもしれない、とウンスは嬉しくてたまらなかった。
「だって」
―こんなに愛されている。
「俺のすることがそんなに面白いですか」
―ええ、あなたのすることのすべてが好きよ。
「かまいませぬ、俺はあなたに笑っていていただきたい」
なんだろう、頭の中で音楽が鳴っているみたいだ、とウンスは思った。
笑いすぎて、はあはあと息を切らしながら、チェ・ヨンを見ると、
もう真面目な顔に戻っていて、そのまま乱れた息ごと口をふさがれた。
そのままうっとりと口づけているうちに、
大きな馬に揺られているみたいに快適に、ウンスは運ばれる。
屋敷の奥の部屋に入り、大きな寝台の上に座らされた。
唇が離れるのが惜しくて、顔がチェ・ヨンを追いかける。
チェ・ヨンは腰掛けたウンスの足を取ると、紐を解いて履物を脱がせ、寝台の脇に丁寧に置いた。
「ねえ、まさかと思うけど」
なんだか急なことばかりで頭がぼんやりとしているウンスは、
自分の足に触れているチェ・ヨンの頭を触りながら問いかける。
「こんな白昼堂々と、その、ここでするの? まさかよね」
現代のマンションと違ってカーテンもなく、部屋の中は紙張りの窓を通して白く明るい。
「きちんと人払いもいたしました」
チェ・ヨンは悪びれもせずにそう答えた。
そして履物を脱がし終わると、座っているウンスの衣の紐を当然のように解き始める。
さっき大声を出したのはそのため、と気づいてウンスは耳まで赤くなった。
ちょっと、恥じらいってものがないの、と腕を持ち上げられて袖を抜かれながら、
ウンスはチェ・ヨンに言う。
「あれじゃあ、いたしますから皆外に出ろって言ったようなものじゃないの。
せめて夜まで待てないの?」
明るい中で裸にされていく心細さで、声が上ずる。
そう責めると、チェ・ヨンは一言のもとに切り捨てる。
「馬鹿な」
待てるものなら、屋敷に連れてきたりはせぬ、と言う口調は有無を言わせない。
ウンスには何一つさせずに横たわらせ、不躾に身体を見ながら、自らも衣を脱ぐ。
身体を隠そうと手を動かすことさえ何か気恥ずかしくて、
ウンスは消え入りそうな気持ちでじっとしていた。
チェ・ヨンが寝台に上がってくると、大きな肩に視界が遮られて、
ようやく開け広げな感覚が和らいで、ほっとする。
なのにチェ・ヨンがあまりにじろじろと見るので、ウンスはまた居たたまれなかった。
あんまり見ないでほしいんですけど、と抗議すると、チェ・ヨンは言った。
「いいなずけとなりましたからには、好きにします」
今までだって好きにしてたじゃない、とつぶやくと、黙ってください、と言って、
ウンスの顔にチェ・ヨンの顔が降ってきて、そして、無駄口を叩けないようになった。
「イムジャ、寝てはいませぬか」
後ろから身体に手を回されてチェ・ヨンに抱き込まれたまま、
ウンスは疲れでとろとろとまどろんでいた。
ええ、起きているわよ、と身体を回してチェ・ヨンの方を向こうとして止められる。
振り返らないで聞いてください、と低い声で言われて、
ただ黙って顔の横にあったチェ・ヨンの腕に唇を落とす。
やはり、言っておきます、と言葉が続く。
なんのこと、と言う声がけだるい。
くたくたで身体が重い、指一本も動かしたくないわ、とウンスは思った。
「天界の言葉を言うのは、後にも先にもこれきりです」
とチェ・ヨンが言った。
少しだけ瞼が持ち上がって、ウンスが何か言う前に、髪にチェ・ヨンの顔が埋められる。
暖かい息がかかり、その心地よさにチェ・ヨンの腕に頬をすり寄せる。
チェ・ヨンが息を止めた。
「愛して、おります」
低く、小さいが、はっきりとチェ・ヨンはそう言った。
これで、あっていますか、不安をにじませた声でつぶやく。
ウンスは、何も言えなくなって、チェ・ヨンの腕にぎゅうとしがみつく。
しばらくして、腕に濡れた感触があって、チェ・ヨンは、はあと息を吐いて、
ウンスを抱く腕に力をこめた。
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