ここは王のいまします都、開京。
北に玄武の首龍山を従え、南に朱雀の松獄山と正対する王城の城下にて、
日々人々の暮らす同じ光景が繰り返される。
しかしこの今日という日は、少しだけ違ったことが起こっているようだった。
「あれ、あんた今日は膝の湿布薬をもらいに行く日じゃないのかい?」
妻が夫に声をかけると、夫はゆっくりと首をふる。
「先生んとこは、今日はお休みだろうて」
はて、七日に一度のお休みは、今日ではないはずだが、と妻が首をかしげると。
「ほら、今日は大護軍のご帰還の日だろうが」
ああ、と妻は膝を打つ。
それじゃあ今日はお休みだあね、と言うと、夫もうんうんとうなずいた。
そしてここでも同じような光景が。
「あれ、みんなどうしたんだね、ぞろぞろと」
城下の南、文臣たちの住まう屋敷の一角にある小さな診療所。
その木戸から、老人、女、子ども、怪我をした男、両手より少ないくらいの人数が
いっせいに出てきた。
これからその木戸をくぐろうとしていた女が、見知った顔を見つけて
そう尋ねる。
「今日はもうおしまいだよ」
男の子どもが聞かれもせぬのに、かけて来て言う。
手首にくるくると白い布を巻いているが、治りかけなのか痛がる様子もない。
なんで、と女が尋ねると、初老の男が腕組みしながらにやついた。
「テホグン殿がけえってきやがったからな」
ああ、そうだった、と女は合点する。
「腕をつかんで先生を屋敷の方へ引っ張っていっちまったよ。
ありゃあ朝まで出てくるまいて」
あらあ、と女が口に手を当てる。
今度はどんくらい行ってなさった、と誰がか言うと、
たしかひと月半にならあな、と答える声がする。
ああ、そりゃあ辛いねえ、と誰かがしみじみと言った。
「ユ先生も、たいへんだ」
年嵩の女がそう言うと、あれが相手じゃあなあ、と男がつぶやいて、
皆いっせいに屋敷の方を遠い目で見た。
時は半刻ほどさかのぼって。
「おっ」
診療小屋の入口の近くに並んでいた男が驚いたように声を上げる。
横に座っていた子連れの女が、男が見たのと同じ方を見て、慌てて子どもの頭を
押さえて、頭を下げさせる。
並んでいる人々は、次々に倒れる子どもの板遊びのように、気づいては頭を下げ、
と皆がその人物に向かって丁寧にお辞儀をした。
小屋の中からは、早口で言い聞かせるような説明が、聞こえてくる。
「見せて、うん、よくなってるわ。ほら、ちゃんと傷口が閉じてる。
あとは化膿させなきゃ大丈夫。ええと、三日後にもう一度来てね。糸を抜くから」
軟膏は足りてる? ちゃんと使ってよ、高麗の人たちは本当に薬嫌いで困るわ、
トギが作る薬はそりゃあよく効くのよ、という言葉が続いて聞こえてきた。
皆にお辞儀を受けた人物は、軽く頭を下げると、列の前を通り抜け、
小屋の入口を覗きこむ。
「ユ先生、ありがとうございました」
後で娘がお礼を持ってうかがいます、と男が言うと、ウンスはああいいの、いいの、
と手を顔の前で振りながらも、ちょっと身を前に乗り出して、
もしかして前に頼んでたやつかしら、と小さい声で男に言う。
「はあ、あの、先生がこしらえてほしいとおっしゃってた、こう肩にかけるずた袋のような…」
ずた袋ってちょっと人聞きが悪いわねえ、肩掛けバッグって言うのよ、とウンスが言うと、
男ははあ、と答えて頭を下げた。
急がないからね、娘さんによろしく伝えてね、とうきうきした声で言うと、
それじゃあ次の方、とウンスが顔を上げた。
顔を上げた先に、チェ・ヨンがいた。
小屋の小さな入口に頭をぶつけそうにして、少し屈んで、覗き込んでいる。
ウンスの顔がぱっと明るくなって、腰を浮かす。
そして、並んでいる患者に気がついて、微笑みながらも腰を下ろしたが、
我慢できずに跳ねるように立ち上がると、チェ・ヨンのもとに駆け寄った。
「おかえりなさい。今日戻るとは聞いてたけど、こんなに早く皇宮から引き上げられるなんて」
はしゃいだように言うウンスをじっと見るチェ・ヨンの口の端が、抑えられないように上がる。
「明日また早く出仕せねばなりません。今日は、チョナに特別にお許しをいただいて、
屋敷に戻していただきました」
そうだったの、じゃあ午後は休診にしましょう、屋敷にあがって休んでいてね、
今患者さんを診てしまうから、とウンスが早口にまくし立てると、
もう何人かは帰り支度をはじめている。
「あら、いいのよ。ねえ、大丈夫だから。遠慮しないで」
とウンスが引き止めるが、別に急ぎなわけではないから明日また来ます、と皆が頭を下げる。
子連れの女だけが、それは申し訳なさそうに、薬だけもらえればと言ったが、
チェ・ヨンは少しばかり顔の紅潮した女の子どもを、自分の脇の下を通して、
ウンスの方へとそっと押しやった。
診察をすませて薬を渡すと、気にして待っていた何人かと一緒に親子は木戸を出て
いくが、木戸が閉じる音もしないうちに、チェ・ヨンはウンスの腕をつかんで、
屋敷の方へと歩き出す。
「明日も午前中は、お休みかもしれんねえ」
ウンスにいつもの「石鹸」を貰おうと並んでいた若い女が、
やはり同じ目的で連れ立ってきていた女にそう言うと、
二人はくすくすと含み笑いながら、木戸を離れた。
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