「テジャン…」
男は水の中を歩いているような気がしていた。
粘りつくような冷たい光の中を、一歩一歩、明るい方へと進む。
自分の周囲に水面のように揺らめくそれの中でも、息はできた。
自分を呼ぶ声がした気がして、声の方に向かって歩いていた。
ふと、身体が軽くなる。
見回すと、そこはすでに、光の中ではなかった。
「テジャン、ご無事で」
強ばっていた小柄な男と並び立つ髭の男の表情が、
見る間にほっと緩むのが見えた。
男はまず女人の首に目をやった。
先ほど流れ出るようだった傷は、わずかに勢いを緩めているが、
それが良いことなのかどうかの判断もつかない。
顔を上げて、辺りを伺う。
立派な石柱に囲まれて、先ほど見た仏像は、より大きなものへと
挿げ替えられている。
床は磨き上げられたような石床で、このような立派な石造りは、
皇宮でさえ見たことがなかった。
「テジャン、あちらに明かりがたくさん見えます。
あちらに街があるのではないでしょうか」
石床の端に立って見下ろすと、夜の暗闇を打ち消すほどの明かりが
眼下に広がっている。
なんだ、ここはどこだ、そう呟いた瞬間に後ろから革鎧の青年が
まろび出て、そのままつんのめるよう走って男の横に並んだ。
「うわぁ」
青年は子どものような声を上げた。
テジャンと呼ばれている男は、背の高い若い男に、
天穴を見張れ、とひと言命ずると、腕の中の女人を石床の上に横たえた。
「チャン・ビン先生、そう思われませんか?
ですからね、やはり美容医療のこれからは、
心のケアと内科的な処置や服薬との、複合的な――」
先ほどまで行われていた、美容外科学会での講演の成功に
気をよくしたウンスは、やや興奮気味で、もう何度か語っていることを、
大学の先輩で内科医のチャン・ビンに早口でまた話している。
キャリーバッグをがらがらと引き摺りながら、
開いた手を空中にふらふらと彷徨わせながらしゃべるのがウンスの癖だ。
背の高いチャン・ビンは、もう何度目かになるその話であるのに、
きちんとウンスの顔を見つめ、丁寧にうなずきながら聞いている。
手を慌ただしく動かしまくしたてながら歩いていたウンスの
足と口が、ぴたりと止まった。
目が細くすがめられ、少し先に目を凝らす。
チャン・ビンは追いかけるように、ウンスの視線の先へと
目を向けた。
「ねえ、あれ」
止まっていたウンスの足が、ゆっくり一歩、二歩と前に出て、
それから早足になる。
「人が、倒れてません?」
チャン・ビンは黙ったまま、ウンスとともに足を踏み出し、
そのまま駆け足になった。
「テ、テ、テジャン、人が来ます」
皮鎧の青年は石床の端から、辺りを見回していたが、
その丘の下を通る固い石の道から、女が一人、男が一人、
走り寄ってくるのに気がついた。
「追っ手か」
跪いていた男が顔を少し上げて問うと、青年は暗い中に
目を凝らす。
「わかりません。で、でも、武器は持ってません。女の方が何か
に、荷を持っています」
それから、呟くように、なんだあれ、旅芸人か、と
不思議そうに言う。
テジャンと呼ばれている男は素早く立ち上がると、
髭の男と背の高い若い男に顔を向けた。
「チュンソク、チョナを物陰にお隠しせよ。お前も共に隠れ、
なにがあってもお守りしろ。トクマンは引き続き天穴を見張れ。
追っ手が出て来るようであれば殺せ」
チュンソクと呼ばれた髭の男と、トクマンと呼ばれた背の高い
若い男は、イエ(はい)、とうなずくと、即座に動く。
「テマン、お前は樹に登って、俺を援護しろ」
革鎧の青年は、まるで人技とは思えない身軽さで、
この石の祠の横の樹上に音もなくのぼった。
「テジャン、王妃は」
チュンソクという男にうながされた小柄な男が、一瞬立ち止まって、
細い悲痛さをにじませたような声で、尋ねた。
「どうにかいたします。まずは我が身をお守りください」
男がほとんど振り向きもせずにそう言うと、小柄な男は歯を食いしばって
物陰に走り込んだ。
と同時に、女と男が石床に続く階段のたもとにたどり着き、
駆け上がり始める。
男は跪いて、もう一度女人の息を確かめると、また立ち上がり、
腰に差した剣に手をかけた。
「あの、大丈夫ですか?」
ウンスは、はあっ、はあっ、と息をきらしながら男に話かける。
男は一瞬にして女の様子を見て取った。
見たこともないような、赤い髪。
胸元の開いた身体の線が浮かび上がる、淫らな異国の衣、
夜でもわかる抜けるように白い肌。
微かに男の目が見開かれる。
このような時であるのに、
男は女の口元に目が吸い寄せられるのを感じた。
見たこともないような色の紅だ。
美しい、という言葉が頭のどこかをかすめたが、
そう意識する前に振り捨てた。
「ね、その人、ああっ!」
女は首の傷に気がついたようで、手を口に当てた。
悲鳴でも上げて逃げ出すかと思っていたのに、女は傷を見ると、
さらに急いで駆け寄ってきた。
テジャンと呼ばれた男を押しのけるように、女人の傍に滑り込む
ようにして膝をついた。
男の方は、その半分まで駆け寄ったが、女人と男の異様な風体に
気がついて、密かな警戒の表情を顔に浮かべて、数歩を残し立ち止まった。
女は懐から小さな真珠色の板札を取り出したと思うと、
耳元に押し当てて、何かをしゃべりだした。
「救急車の出動を一台要請します。患者は若い女性、
首中程に鋭利な何かで切りつけられた外傷、7センチ程度で、ええ、
静脈が傷ついています。至急血管縫合手術が必要だと思われ――」
男は板札にしゃべり続ける女を一蹩すると、その後ろの男に顔を向けた。
帯剣もしておらず、一風変わってはいるが、武人の身なりではない。
「この近くに、医員はおらぬか」
男がそう言うと、ウンスの後ろのチャン・ビンが口を開く前に、
ウンスは男には目もくれずに、女人に首筋の傷に触れ、確かめながら
しゃべりだす。
「わたしが医者よ。今、救急車を呼びました。
チャン・ビン先生、止血が必要です、わたしのキャリーバッグに―」
すらり、と男の腰から剣が抜かれた。
チャン・ビンの動かない表情が崩れ、目が見開かれる。
男は医者だと言ったウンスの横に立つと、怒りを孕んだ声で言う。
「何をする」
男はしゃがんでいるウンスの首元に、剣を当てた。
ウンスは臆する様子もなく、男を睨みつけながら、刃を手のひらで
ぞんざいに自分から押し遠のけた。
つい先ほどまで何十人もを斬ってきた剣を、素手で退けられて、
男は微かに戸惑ったよう瞳を揺らした。
「こんなときに、ふざけないでよ! 何? テレビの撮影?
チャン・ビン先輩、見てないで手伝ってください。
この人の傷、かなり深いわ」
ね、撮影中の事故なの、責任者は、あなたは事情がわかるの、と
畳み掛けるようにしゃべりながら、ウンスは大きな荷入れから、
何やら道具を引き出し始める。
勝手に触れるな、と男が女の肩をつかんで押しのけようとすると、
女はいきなり立ち上がって、一歩前に出て男に詰め寄ると、
ドンと男の胸に両手を押し当てて、突き飛ばすようにした。
「ねえちょっと、何様だか知らないですけどね、
この人を助けたいんだったら、黙ってて!」
祠の横にそびえる見たこともない明るい白い灯火に照らされて、
女の髪は逆立って赤く燃えるようだった。
男は瞳の奥の強い光に、気圧されるようなものを感じた。
他人にそんなものを感じたことなど、この数年なかったことだ。
どうしよう間に合わないわ、と顔を歪めながら、ウンスは男に
背を向けると、この言い争いの間に女人に近寄り脈をとりはじめて
いたチャン・ビンの傍に膝をついた。
「医員なのか」
男が剣を持った手をだらりと、身体の横に下げたまま、
二人に問いかける。
「そうよ、さっき言ったでしょう!」
「そうだ」
ウンスは噛み付くように、チャン・ビンは落ち着き払った声で同時に答える。
それを聞いて、男は岩影に、一瞬目をやって戻す。
「名を、何という」
男は急に、はっきりと定まった声で、言った。
ウンスは苛々と身体を揺らしながら、顔だけ振り返った。
「ウンス、ユ・ウンスよ。江南の形成外科医よ。
そんなこと今はどうでもいいでしょう。
人に名前を尋ねるなら、自分が先に名乗りなさいよ!」
男は、すい、と目を細めた。
一歩、近寄る。
「俺の名はチェ・ヨン」
高麗国于達赤隊隊長、中郎将のチェ・ヨンと申す。
その男は剣をウンスの喉元に突きつけて、そう言った。
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