「はな…み」
ウンスは、きょとんとした顔でそう口にして、
それから思わず周囲に視線を巡らせる。
まだどの蕾も固い季節で、紅梅でさえもきつく閉じている。
場所によっては名残の雪が、吹き寄せられてまだ凍っているのだ。
「えーと、何かのなぞなぞとか?」
ウンスがそう、自分の顎に人差し指を当て首を傾げると、
チェ・ヨンは思わずに口をほころばせて、首を振る。
来ていただければわかります、それだけ言うと、小さな上り下りのある
ぬかるみを、器用に手綱を操りながら抜けていく。
気をつけて、と頭を大きな手で押さえられて下げると、
チェ・ヨンは潅木の枝を腕で持ち上げて、
二人にかからないようにしならせる。
「もうすぐ?」
馬上でかがみながらウンスが言うと、チェ・ヨンは困ったように考え込んだ。
疲れましたか、と尋ねられて、ウンスは全然疲れてないけど、
あとどのくらいかなあと思って、と答える。
「日が暮れるころには着きます」
チェ・ヨンの言葉に思わず顔を振り返らせる。
暗くなってから? と言うと、そうです、とチェ・ヨンは言う。
わけがわからない。
「ねえ、ちょっと聞くけど」
ウンスは泥で蹄が滑るのを踏ん張るために揺れる馬の背で、
チェ・ヨンが落ちぬよう腰に回してくれた腕に
ぎゅっと手でつかまりながらしゃべり続ける。
「花見っていうのは、高麗では何か別の意味があるってことは
ないわよね? 花を、見る。あ、花っていうのはね―」
チェ・ヨンはウンスの腹に当たっている手のひらを、ぽんぽん、
と二度動かして、大丈夫です、あなたが思っている花見です、
と微笑みながら言った。
ところどころに溶け残った砂埃で黒ずんだ雪だまりが点在する
広い草地を抜けると、まだ葉をつけぬ墨絵のような木立が続く。
木立の入口ではまだ微かに残っていた空の黄赤が、
紫色に変わり色を失った頃に、唐突に黒々とした水の広がりが
目の前に現れた。
「着きました」
チェ・ヨンは律儀にそう告げて、馬から降りる。
手を貸してもらって馬の背から滑り降りる間にも、
ウンスの顔は湖上の方を向いたままだった。
地面に脚がつくとそのままチェ・ヨンの手を離れて、
水の際まで十数歩を引き寄せられるように進む。
馬は軽くなった身体を喜ぶようにいななくと、
そのまま湖岸の草を食みはじめる。
「よかった、凍っておらぬ」
チェ・ヨンは、安堵したように誰に聞かせるでもなくそうつぶやく。
湖面が凍っていないか、わずかにだが心配していたのだ。
だから、ウンスにもあまり詳しい話をしなかった。
ウンスの背中を追って、その後ろに立つ。
ウンスは肩ごしに、チェ・ヨンを振り返る。
その目のきらめきと開いた口元を見ただけで、ウンスの歓びが
伝わってきて、チェ・ヨンは深い満足を覚えた。
湖岸から離れて湖の中央に見える六本の木に、
けぶるように白い花がびっしりと咲いている。
日が暮れて、墨を流したような湖面からそのまま生えているように
見える六本の木は、柳だろうか、花の重みで枝先がたわんで、
水面の近くまで垂れ下がっている。
寒さで腕を擦りながらも、言葉を失って眺め続けるウンスを、
チェ・ヨンは黙って後ろから腕の中に入れて、
風よけとなった。
「あれは、何の花なの」
あたりからまったく陽の光がなくなると、
静まり返った湖面の濃藍と花の白の美しさは妖しいほどで、
ウンスは声がそれを壊してしまうのを恐れるように
小声でチェ・ヨンに尋ねた。
「見ていてください」
チェ・ヨンはウンスから離れると、地面をきょろきょろと見回しながら
歩き、足元の石を拾い上げる。
それから水際に近づくと、大きく振りかぶってそれを、
水面に鋭く投げた。
石は水を切って、二、三度跳ねたが、白花の木に届く前に水に沈んだ。
小さく舌打ちをして、チェ・ヨンはまた石を拾うと、
もう一度力いっぱいに投げる。
その滑らかな平べったい石は、八度ほど水の上を跳んで、
水上の木の幹に斧を入れたような乾いた音を響かせた。
その途端に。
ざっという羽音とともに、白い花がぱっと一瞬にして空に舞い上がった。
樹上の夜空を一面の白い小花が埋め尽くし、それから、
渦を巻くようにして天へと立ちのぼる。
ここに来てからずっと声を潜めていたウンスが、思わず、
「ああっ」
と声を上げる。
チェ・ヨンはそれを聞いて、振り向いて、ウンスの様子を目にすると
嬉しそうに笑いを浮かべた。
「白鷺(しらさぎ)です」
チェ・ヨンは歩み寄りながら、問われる前に答える。
湖上の小さな島の上に、大柳が六本ほど自生していて、
この季節になると、そこにこぶしほどのごく小さな白鷺が渡ってくる。
夏には明るい黄緑色になるはずだが、今はまだ濃い緑色の新芽を
枝先につけている柳に、ぽつぽつと白い模様が現れる。
そして白鷺は次々に渡ってきて、柳はまたたくまに枝先がたわんで
水面に触れるほど真っ白に埋め尽くされる。その様子を湖岸から見ると、
まるで木の一面に白い花が咲いたように見えるのだ。
「父について双城総管府に三度参りました。その折、この近くの集落に
何夜か宿を借りまして。その時にこの湖を知りました」
初めて酔いつぶれたのも、その時です、とチェ・ヨンが懐かしそうに言う。
馬から厚手の毛織りを下ろすと、自分の身体に巻きつけて地面に腰を下ろし、
ウンスを膝の間にまねく。
膝と膝の間にすっぽりと座ったウンスを自分ごと毛織りでしっかりと巻くと、
空に風に散る雪のように舞っている鳥たちを見上げる。
「酒宴に呼ばれまして」
話の続きをうながすウンスの手に、チェ・ヨンは指を絡めて
ウンスの腹に当て温める。
柳に鳥の花が咲いた最初の新月の晩が、春の酒宴だという。
この花を見ながら、酒を酌み交わし、夏の終わりまで続く長い農作業の
はじまりとする。
「酒を飲んだことはありましたが、飲み騒いだのは初めてでした。
すっかり酔っ払って、この湖に入って泳ごうとしたらしい」
白鷺たちは夏の終わりまで湖にとどまるけれど、
柳の根元に巣を作りそこで卵を抱くので、酒宴が終わって一週間もすると、
柳に白い花が咲いたようなその光景は終わってしまう。
「だから、言わなかったのね」
見れるかわからなかったから、ウンスはそう言いながら、
一羽、また一羽と柳にとまって花になっていく小さな白い鷺を
見つめていた。
「はい」
チェ・ヨンのいらえは短いが、多くのものを含んでいた。
ウンスの首に口を当てて、温かい息を吹きかけているので、
チェ・ヨンの顔は見えない。
ウンスは自分の指に絡んだチェ・ヨンの指を、きゅうと握る。
「わたし、こんな綺麗なもの、見たことない」
ウンスがそうささやくと、チェ・ヨンは嬉しそうにウンスを
抱く腕に力をこめた。
花だけではありません、後で集落に行って宿を取りますから、
酒も飯も腹がくちくになるほど、とチェ・ヨンが言うと、
ウンスは、本当に、とひどく弾んだ声をだした。
「でも、もうしばらくはこうしておりましょう」
チェ・ヨンがそう言うと、ウンスはうなずいて、
二人はただ寄り添い、一つの大きな石のようになって
その白花を眺め続けていた。
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