ウンスが身を隠すために、ウダルチの兵士として、チェ・ヨンの部屋に匿われていた頃のお話です。バレンタインの頃は、たぶんウンスはまだ発病はしておらず、チャン侍医も生きていて、わずかな平穏を甘受していたころ、と思ってます。2話で終わります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
チェ・ヨンは、何か考え事をしているふうで、ややゆっくりとした
足取りで長和殿へと続く中庭に面した回廊を進んでいた。
ふい、と何かが心に兆して顔が上がると、わずかに足が早まる。
その顎はもう少しだけ上がって、目の中に光が灯る。
急ぐだけの足だったのが、自然と駆け足になって、
チェ・ヨンはいっさんに走っていた。
目は、まだ眼前に現れてはいない求めさがすものへと、
真っ直ぐに向けられている。
―あの人のもとへ。
いつの間にか、頭の中がそれだけで占められている。
薬草園に入る簡素な木門をくぐり、脇目もふらずに典医寺の建物に
足を踏み入れる。
―ここだ。
誰に確かめたわけでもなかったが、チェ・ヨンには、予感があった。
―あの人は、ここにいる。
部屋の前を一つ一つ通り過ぎながら、チェ・ヨンの予感は
確信へと変わる。
この部屋でもなく、この部屋でもなく、あの、あの扉の向こうに。
チェ・ヨンの両手が扉にかかる。
そして、勢いよく手間に向かって大きく引き開けられる。
「医仙! 何をやっている!」
チェ・ヨンは鍋の中身をかき回しているウンスを発見して、
大きな声を上げた。
「あら、テジャン」
ウンスは、険しいチェ・ヨンの顔などものともせずに、
にっこりと頬に笑いを浮かべて、木べらを持ち替えて空いた手で
チェ・ヨンに軽く敬礼してみせる。
「隊長室から出ぬよう、言っておいたはずですが」
チェ・ヨンはウンスの傍に歩みを進めて肩をつかむ。
ウンスは手を止めずに、上目遣いで尋ねる。
「ねえ、どうして私がここにいるってわかったの?」
誰にでもわかります! とチェ・ヨンが歯噛みするように言う。
「皇宮中に甘ったるい匂いが漂っている。皆仕事にならぬ!
こんなことをするのは、一人しか考えられません」
匂いのもとをたどってここに参りました、簡単にあなたを見つけられましたよ、
とチェ・ヨンが苛ついた口調でそう言うと、ウンスはさすがに、
小さくしゅんとなる。
その横に、今にも逃げ出しそうにして、なんとか鍋の影に隠れようと
でも言うように腰をかがめるチュンソクとトクマンの姿を見つけて、
チェ・ヨンの目尻がひときわ釣り上がる。
「プジャンチュンソク、トクマン!」
名前を呼ばれて、二人はしまった、と目をぎゅっとつむり、
ぴしりと両手を身体の横に揃えて直立不動になる。
「お前らはいったい、何をしている」
今度こそ本当に歯ぎしりが聞こえそうな勢いで、チェ・ヨンは怒鳴りつける。
チュンソクが額にうっすらと汗を浮かべながら、答える。
「医仙殿が、是非とも作りたい薬があるゆえ、手伝いがほしいと
おっしゃったので、ウダルチより二名、護衛を兼ねて
不肖わたくしとトクマンがその任にあたっておりました」
テ、テジャンより医仙殿の要望には可能な限り応えるようにと
命ぜられておりましたゆえ、とトクマンが勇気を振り絞って言う。
「これ、が、薬、か!」
糖蜜とスパイスと、何かを混ぜたものを煮詰めるとにかく鼻の穴の奥から
耳の穴まで甘くなりそうな匂いを、くん、とひと嗅ぎしてみせて、
チェ・ヨンはチュンソクとテマンの腹を、剣の鞘で一発ずつ小突く。
ウンスが慌てて、割って入り、二人を自分の背中に隠す。
「ちょっと待って。わたしが頼んだの。お菓子みたいな匂いで、
飴菓子みたいだけど、身体が温まって気持ちもこう元気になるし、
風邪気味の喉にも効くのよ」
大鍋をかき混ぜるのはすごく力がいるの、たくさん作りたかったから、
二人にお願いしたの、怒らないであげて、と説明するウンスの肩ごしに、
チェ・ヨンは二人を睨みつける。
これが薬だと? とウンスを押しのけようとしたときだった。
「テジャン、医仙のおっしゃるのは、あながち嘘ではありません」
チェ・ヨンが振り返ると、先ほど開け放した扉からチャン侍医が
入ってくる。
鍋の横にある乳鉢を手に取りながら説明する。
「これは肉桂、血の通りを良くし身体を温める。こちらは丁子といい、
刺激があり気持ちの高揚を呼ぶので、士気を高めるのには良いでしょう」
こちらは月桃、紅花、と鉢をいくつか取り上げたあとに、
チェ・ヨンに歩み寄り、その肩に手を置く。
「鍋の中のものはもう少し煮詰めて乾かせば飴になり、
兵士たちが携帯できる菓子になる。彼らの身体に良い菓子を作りたいと
医仙よりお申し出があり、典医寺の設備をお使いいただいたのです」
チャン侍医の助け舟にウンスは、そうそう、と顔を明るくして
うなずいてみせる。
ほら、あなたも味見してみて、と匙にすくったそれを口元に
差し出されて、チェ・ヨンはけっこうとその手を押し戻す。
「あなたが兵士たちの責任者でしょう? もしこれをチョナが
お認めになったら、戦場にだって持っていくのよ。
ちゃんと味もみて、開発に協力してもらわないと」
とウンスがもっともらしく言うと、チャン侍医もややわざとらしく
深々とうなずいてみせ、目立たぬようにウンスの後ろで縮こまっていた
チュンソクとトクマンもここぞとばかりにうなずいてみせる。
否定する言葉が見つからずに、チェ・ヨンは口を引き結んでいたが、
ウンスが、ほら、と匙をもう一度口に近づけると、
しかめつらをしたまま、わずかに口を開ける。
ウンスはしてやったりと、にやついた笑顔を浮かべて、
あーん、とチェ・ヨンの口に丁寧に匙を差し入れる。
チェ・ヨンが舐めとるとすぐに、どう? と反応を見る。
「まあ、悪くは、ない」
ぶっきらぼうに言い捨てると、皆が自分の顔を注視しているのに
気づいて、急いで口元を手の甲で拭うと照れ隠しのように言う。
「チュンソク、トクマン、医仙の手伝いを続けろ。
ただし終わったらすぐに兵営に戻れ。それから」
チュンソクとトクマンが答えるのを確かめると、今度はウンスに
顔を向ける。
「終わりましたら、部屋に戻り、出歩かぬこと」
それと、とちらとチュンソクとトクマンを見ながら続ける。
「力仕事などは、すべて二人にやらせて、ご自分は無理なさらぬよう」
くれぐれも、と言うと、チャン侍医にそれでは頼む、と言って、
チェ・ヨンは扉を出て行った。
(続く)
にほんブログ村