「さぶっ」
晩春の暖かさも、岬の突端では吹き飛ばされてしまうようで、チュンソクはぶるりと身体を震わせた。
わずかに飛沫の混じった空気が、余計に身体を冷やしている。
「来ねえなあ」
夜目はきく方だが、遥か遠くの黒い水平線まで船影はない。
船戦の経験もあるチュンソクは、ここ数日は東からの風が強く、船の到着は早くて明日の夜半だろうとおおよその見当をつける。
そうなると、こんな場所にいるだけ損だが、それでも張番を立たせぬことはできないので、まあ納得して海を眺め続ける。
先ほど、海の中をかすかに光る何かの群れが浮かび上がり、静かにまた沈んでいった。
テホグンに知らせたくてウズウズするのだが、二度目の報告に言ったときに、来なくてよいと言われたのを思い出して、ぐっと堪える。
もう二刻ほどもここにいて、細い三日月が雲に隠れたり見えたりしながら、だいぶ位置を変えた。
ぐっとせり出してくるあくびを、誰も見ていないのに、かみつぶす。
一言で言えば、退屈なのだ。
「まあ、あれだ。やはり、報告にまいろう」
チュンソクは誰に聞かせるでもなく言いながら立ち上がる。
うん、あれだ、一定の間隔でなにごともないことをお知らせするのも、一つの任務である、うん。
自分に言い訳するために、声を出してつぶやきながら、チュンソクは意味もなく、身体から埃を払った。
「よしっ」
自身を納得させるように言うと、チュンソクは足取りも軽く、岬を降りる道とも言えぬほどの踏み分けをかけるように、歩きはじめた。
できるだけ音を立てぬように降りて、雑木を抜けると浜に出る。
先ほどまで、ヨンが座っていた流木にその姿はなく、チュンソクはあたりを見回した。
ふと何かに気づいて、足音も息も殺してかけよる。
(これはたしか…!)
ウンスが先ほどまで羽織っていたチョゴリではないか、と拾い上げた手が震える。
はっと姿勢を低くして、あたりを油断なく見回すが、特に人影も争った形跡もない。
まずは浜小屋の中を確かめようと、一歩踏み出そうとしたところに、後ろから駆け寄る足音がした。
「テマナ、これを見――」
言いかけたところでいきなり口をふさがれ、引きずられるように浜の端まで連れていかれる。
チュンソクは敵に見られてでもいるのかと、きょろきょろとあたりを見るが、特に気配も感じられない。
が、テマンの顔は真剣そのものだ。
「おい、どういうことなんだ、説明してくれ。これを見ろ、すぐにテホグンにご報告せねば――」
ようやく手を外されて、早口でテマンに言い募ると、しっ、と言われてそっと背中を向けられる。
背負われて眠っているミョンソンを見て、チュンソクは声をぐっと低めて、テマンに顔を近づける。
「夫人に何かあったのか!?」
顔色を変えたチュンソクに、テマンが急いで顔を振る。
「ち、違う。何にもない! だ、大丈夫だ、テジャンもユ夫人も、あの、浜小屋の中にいる」
はあ? とチュンソクの口から声が出る。
テマンはもう一度、静かにしろ、ミョンソンが起きちまう、と繰り返す。
「二人が小屋の中にいるなら、なんだっておまえ、俺のことをこんなところまで」
とそこまで言って、チュンソクの動きがはたと止まった。
テマンがじーっと見つめるうちに、チュンソクの目が少しだけ大きく見開かれる。
口が声を出さずにゆっくりと開いて、手のひらにもう一方の手のこぶしを、ぽん、とゆっくり打ち付ける。
テマンがにこりと笑って、うんうんうんうん、とうなずく。
それに合わせるように、チュンソクもゆっくりと二度うなずく。
チュンソクの顔が、驚きから納得、そして、我慢できないように笑んで、二人してくくくとわけもなく笑う。
そして急にチュンソクは気がついて、ぐしゃぐしゃに握り締めていたウンスのチョゴリを慌てて開くと、砂をはらって申しわけ程度にたたみはじめた。
✽
「あ」
テマンが小さな声をあげる。
「どうした?」
岬の突端で見張っていたチュンソクは、風が当たらぬよう、後ろの林の中で膝に赤ん坊を寝かせたテマンを振り返る。
半分居眠りをしていたテマンは目をこすりながら、起きちまった、と残念そうにつぶやいて、寝ろ、寝ろ、な、とささやきながら立ち上がるが、ふえふえとぐずる声が、チュンソクにまで届いてくる。
「どれ貸してみろ」
俺も父親だからな、寝かしつけくらいはお手のものだ、と言いながら受け取ると、よしよし、と言いながら小さく揺らす。
しばらくの間、チュンソクが奮闘してみるものの、ぐずりはだんだんと大きくなり、半分泣き声になってきた。
「な、なあ、プジャン。これ……乳をほしがってるんじゃ、な、ないか?」
口をぱくつかせ、手元に何度も指を寄せるしぐさに、テマンがチュンソクの顔を下から覗きこむ。
チュンソクは、眉をしかめる。
「俺もそう思っていたところだ」
しばらく、二人はじっと固まったまま、赤ん坊の泣く姿をじーっと見つめる。
どうする、とチュンソクが、低い深刻そうな声でテマンに問いかける。
どうしようって、とテマンが、口を尖らせると、
「い、行くしかないだろ」
とつぶやく。
だよなあ、とチュンソクが心底残念そうに言うと、テマンもはあとため息をつく。
「肩を落とすな、テマン」
おまえはよくやった、先ほどからもう二刻ほど引き伸ばした、いかなテホグンでも、とまで言ってチュンソクは言いすぎたことに気づいて、ううん、と咳払いでごまかす。
「まあ、あれだ。あまりお嬢さんを泣かせるのは、まずいだろう。あたって砕けろ、だ」
砕けるのは嫌だなあ、とテマンはつぶやきながら、赤ん坊をもう一度おぶう。
そうやって背負っても、今度は泣き止まないので、これはいよいよ仕方がないと、二人は顔を見合わせて、坂道を下りはじめた。
✽
「プ、プジャン、たのみます」
テマンは泣き声が大きくなってきた赤ん坊を背中から下ろすと、チュンソクに向かって差し出す。
「ななな何を! おまえがお嬢さんを預かったんだから、おまえが行ってこい」
チュンソクは首と両手をぶんぶんと振りながら、それでもできるだけ声をひそめて言い返す。
お、おれがですか、とテマンは抱きかかえた赤ん坊と静まっている小屋とを交互に見て、首をかしげたり、あたりを助けでも求めるように見回したり、少々うろたえている。
が、これ以上泣かすわけにもいくまいと、意を決して小屋の扉へと一歩踏み出したところで。
「テジャン!」
「テホグン!」
内から扉が音もなく開き、白いソゴッ(肌着)だけをまとったヨンが、ゆったりとした様子で外に出てくる。
ほんのかすかに、小屋の中を気にするように視線が後ろに流れるが、そっと後ろでに閉じて、二人に歩み寄る。
「ミョンソンが乳を欲しがったか」
口を開きかけたテマンが言う前に、ヨンは低く落ち着いた声で、そう言った。
そのくつろぎながらも研ぎ澄まされた様子に、チュンソクはほうっと思わず息をのむ。
すぐに手を伸ばしてテマンから赤ん坊を受け取ると、腕にかかえて、もう本格的に泣き出しているのを柔らかい眼差しで見つめる。
「待たせて、すまなかったな」
小さくつぶやくように詫びると、赤ん坊の顔を見つめたまま命じる。
「チュンソク、このまま岬の見張りに戻れ」
チュンソクがイェ、と短く答える。
「テマナ、上にある荷物をこっちに運べ。運んだら、チュンソクに合流し、交互に仮寝を取れ」
わかりましたっ、とテマンも歯切れよく返事をする。
チュンソクとテマンは、ちらりちらりと互いに視線をやりとりして、思わず微笑んでしまう顔をひきしめながら、小さくうなずきあう。
「では日が昇りましたら、一度ご報告に参ります」
それと、とチュンソクが手に持ったチョゴリを遠慮がちに差し出すと、ヨンは一瞬何だろうという顔つきをしたが、ああとすぐに思い当たって、くっと微かに笑いながら受け取った。
じゃあ俺はすぐに荷物を、とテマンが言い、二人がいっせいに駆け出そうとする。
ヨンは待て、とそれをとどめた。
二人は、踵を返しかけた姿勢のままで、動きを止める。
「二人とも……礼をいう」
ヨンが腕に赤ん坊を抱いたまま、顔を上げて、小さくうなずき、そう言った。
二人は、抑えられないようににかっと笑うと、頭を下げ、そのままそれぞれの持ち場へと走り出した。
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